攻めの三左、難攻不落に挑む – 大須賀康高、徳川を支えた剛勇の魂

戦国武将一覧

戦国という血湧き肉躍る時代にあって、主君のために一身を賭して戦場を駆け抜けた武将たちがいました。彼らは、自らの武勇と忠誠を主君に捧げ、激しい時代の流れの中で確固たる存在感を放ちました。徳川家康の譜代の家臣として、そして「徳川十六神将」の一人に数えられる大須賀康高(おおすが やすたか)もまた、そんな武将の一人です。特に、難攻不落と謳われた高天神城を巡る攻防戦における彼の活躍は、多くの人々の心に刻まれています。「攻めの三左」と称されたその剛勇の生涯は、武士としての誇りと、主君への揺るぎない忠誠を静かに物語っています。この記事では、大須賀康高という人物の魅力と、彼が戦場で示した武辺、そして高天神城攻めに賭けた思いに迫ります。

三河の気風、徳川への献身

大須賀康高は、享禄4年(1531年)に三河国で生まれました。父は大須賀定俊といい、徳川家康の祖父である松平清康の代から松平家に仕える譜代の家臣でした。このような家柄に育った康高の胸には、幼い頃から三河武士特有の質実剛健な気風と、徳川家への揺るぎない忠誠心が深く根付いていました。

康高は、若い頃から武芸に秀でており、特に槍の扱いに長けていたと言われています。彼の初陣は明らかではありませんが、徳川家康が今川氏から独立し、自らの道を歩み始める頃から、康高は家康の傍らにあって、その初期の苦難を共にしました。家康の危機に際して、康高は常に自らの身を挺して主君を守りました。その献身的な姿勢と武勇は、家康の信頼を次第に厚くしていったのです。

「攻めの三左」武辺一途な生き様

大須賀康高は、その勇猛果敢な戦いぶりから「攻めの三左(攻めのさんざ)」という異名で知られていました。これは、徳川十六神将の一人であり「槍半蔵」と呼ばれた本多重次や、「今半蔵」と称された榊原康政のように、彼が戦場において常に攻撃の先頭に立ち、敵陣深くまで斬り込んでいくことを得意としたことに由来します。

康高は、徳川家康の天下統一の過程で経験した数々の重要な合戦に参加しました。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは、家康が今川義元から自立する大きな転換点となりますが、康高もこの戦いに従軍しました。元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは、織田・徳川連合軍として朝倉・浅井軍と激突。康高は、自ら敵陣に突撃し、目覚ましい武功を立てました。元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは、武田信玄の大軍に徳川軍が苦戦する中で、康高は決死の覚悟で戦い、家康の撤退を助けるために重要な役割を果たしました。

康高の戦いぶりは、常に大胆不敵であり、敵を恐れることを知りませんでした。彼は、困難な局面にあっても決して退くことなく、むしろ好機と捉えて積極的に攻め込むことを好みました。「攻めの三左」という異名は、まさに大須賀康高の武辺一途な生き様を端的に表していると言えるでしょう。

高天神城攻め、執念の戦い

大須賀康高の生涯の中でも特に重要な局面として語られるのが、高天神城(たかてんじんじょう)を巡る攻防戦です。高天神城は、現在の静岡県掛川市に位置する山城で、遠江国の要衝であり、その堅固さから「難攻不落」と謳われていました。徳川家康にとって、この城を巡る戦いは、武田氏との覇権争いにおいて極めて重要な意味を持っていました。

武田信玄の時代、第一次高天神城攻めが行われましたが、徳川軍はこれを守りきることができませんでした。その後、武田勝頼の時代になると、徳川家康は再び高天神城の奪還を目指します。第二次高天神城攻めです。この戦いにおいて、大須賀康高は重要な役割を担いました。彼は、最前線で激しい攻防を繰り広げ、城の攻略を目指して果敢に攻撃を仕掛けました。

しかし、高天神城は天然の要害を利用した堅固な城であり、武田方の守りも固く、徳川軍は苦戦を強いられました。康高は、一進一退の攻防が続く中で、自身の「攻めの三左」の気風をいかんなく発揮し、兵を率いて敵陣に迫りました。幾度となく危険な目に遭いながらも、決して諦めることなく、城の攻略のために全力を尽くしました。難攻不落の城に挑む武将たちの執念と、激しい攻防の様子は、想像するだけで胸が高鳴ります。大須賀康高の高天神城攻めでの奮闘は、徳川軍の士気を高め、最終的な勝利に貢献しました。

横須賀城主、そして「徳川十六神将」

高天神城攻めをはじめとする数々の戦場での功績が認められ、大須賀康高は徳川家康から厚い信任を得ました。そして、天正12年(1584年)には、遠江国の要地である横須賀城を与えられ、城主となりました。横須賀城は、高天神城のすぐ近くに位置しており、武田氏に対する備えとして重要な役割を果たしました。

横須賀城主となった康高は、武将としての顔だけでなく、領主としての手腕も発揮しました。領国を治め、民の生活を安定させるために尽力しました。彼は、戦場で示した剛勇さとは異なり、領民に対しては公正で温かい心を持って接したと言われています。

大須賀康高は、徳川家康の天下統一に貢献した特に優れた家臣たちを顕彰した「徳川十六神将」の一人に数えられています。これは、彼の武功と徳川家への忠誠が、後世において高く評価されたことを示しています。また、康高の嫡男である忠政は、榊原康政の養子となり榊原家を継ぎました。これは、徳川家の重臣である大須賀家と榊原家という名門同士の結びつきを強め、徳川幕府の体制を盤石にする上で重要な意味を持っていました。康高は、自身の家だけでなく、徳川家全体の将来を考え、息子を託したのかもしれません。

武辺に生きた魂が語りかけるもの

大須賀康高の生涯は、戦国という時代を武辺一途に生き抜いた一人の武将の物語です。彼は、自身の得意とする槍を手に、常に敵陣の先頭に立って戦い、「攻めの三左」として恐れられました。特に、難攻不落の高天神城に挑み続けた姿は、武士としての意地と、主君への忠誠心がいかに強かったかを示しています。

彼の人生は、私たちに多くのことを語りかけてきます。自らの持ち場で全力を尽くすことの大切さ。困難な目標に対しても決して諦めずに挑戦し続ける強さ。そして、主君や組織への揺るぎない忠誠心。大須賀康高は、派手な言動はありませんでしたが、その実直な武功と、武士としての清々しい生き様は、多くの人々の心を惹きつけました。

泰平の世が訪れ、戦場の第一線から退いた後も、大須賀康高は領主として、そして徳川家の重臣として、自身の役割を果たし続けました。武辺一途に生きた彼の魂は、時代を超えて私たちに語りかけてきます。大須賀康高。その剛勇な生涯は、今も私たちの心に深く響くものがあります。

この記事を読んでいただきありがとうございました。

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