戦国という激しい時代に、天下にその名を轟かせた織田信長(おだ のぶなが)という天才がいました。その偉大な父の影のもとに生まれ、凡庸と評されながらも、幾多の危機を乗り越え、激動の時代を生き抜いた武将がいます。織田信長の次男、織田信雄(おだ のぶかつ)です。彼の生涯は、偉大な父との比較、そして時代の大きな流れに翻弄されながらも、自身の命運を巧みに切り開いていった波乱に満ちた物語です。清洲会議での駆け引き、小牧・長久手の戦い、そして改易という苦難を経験しながらも、最終的には大名として生き残った信雄。この記事では、織田信雄という人物の魅力と、彼が直面した困難、そして激動の時代を生き抜いたその知られざる姿に迫ります。
偉大な父の影、伊勢への道
織田信雄は、永禄元年(1558年)に織田信長の次男として生まれました。幼名は茶筅丸(ちゃせんまる)といいました。父・信長は、革新的な発想と圧倒的な武力をもって天下統一を目指し、その生涯は常に時代の中心にありました。信雄は、このような偉大な父の傍らで育ちましたが、父の強烈な個性と比べられることは、幼い頃から信雄にとって大きなプレッシャーであったことでしょう。
信長は、伊勢国(現在の三重県)を支配下に置くため、この地の有力者である北畠具教(きたばたけ とものり)に信雄を養子として送り込みました。信雄は北畠氏の家督を継ぎ、伊勢国の支配を任されます。しかし、後に信長は北畠宗家を滅亡させ、信雄が伊勢国の実質的な支配者となりました。この時、信雄は父の意向に従い、北畠一族を容赦なく粛清しました。この出来事は、信雄の冷徹な一面を示すものであると同時に、父の期待に応えようとする必死さの表れでもありました。しかし、伊勢における信雄の治世は、父・信長に比べて凡庸であったと評されることが多く、父からの期待と、それを満たせない自身の器量に対する苦悩を、信雄は常に抱えていたのかもしれません。
本能寺の変後、権力争いの渦中へ
天正10年(1582年)、織田信長が本能寺で非業の死を遂げた「本能寺の変」は、信長の築き上げた体制を大きく揺るがしました。信長の死後、織田家の後継者問題や遺領を巡って、家臣たちの間で激しい権力争いが起こります。織田信雄は、次男として、そして伊勢国の支配者として、この争いの渦中に身を投じることになります。
清洲会議(きよすかいぎ)において、織田家の後継者と遺領が話し合われましたが、信雄は三男の織田信孝(おだ のぶたか)と対立します。この時、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、信長の孫である三法師(後の織田秀信)を擁立しつつ、織田家の実権を握ろうとしていました。信雄は、自らの地位を確固たるものにするために、豊臣秀吉と手を結びます。そして、秀吉と共に三男・信孝を滅ぼしました。この出来事は、信雄の政治的な駆け引きの手腕と、自身の生き残りを最優先する現実的な判断を示しています。天下人への道を歩み始めた秀吉との連携は、信雄のその後の運命を大きく左右することになります。
小牧・長久手の戦い、家康との共同戦線、そして改易
豊臣秀吉が織田家の実権を握り、天下人としての地位を確立していく中で、これに反発する勢力もありました。徳川家康もその一人です。天正12年(1584年)、豊臣秀吉と徳川家康の間で、天下分け目の戦いの一つである小牧・長久手の戦いが起こります。この戦いにおいて、織田信雄は徳川家康と手を結び、秀吉に対抗しました。
信雄が家康と結んだ背景には、秀吉に織田家を乗っ取られることへの危機感や、自身の立場を守りたいという思いがあったと考えられます。しかし、この戦いの主導権は家康にあり、信雄は家康の戦略に従う形となりました。戦いは一進一退の攻防が続きましたが、信雄は家康に無断で豊臣秀吉と講和してしまいます。この行動は、家康の怒りを買い、両者の関係に亀裂を生じさせました。
秀吉との講和後も、信雄は秀吉の命令に従わない態度を見せ、秀吉の怒りを買います。そして、天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐の後、織田信雄は改易処分となり、大名としての地位を失いました。偉大な父が築いた織田家の一員として、一時は広大な領地を支配しながら、自身の判断ミスや時代の流れによって改易された信雄。彼の心には、深い失意と後悔が去来したことでしょう。
失意の日々、そして復活へ
改易された織田信雄は、大名としての地位を失い、失意の日々を送ることになります。一時期は幽閉されたとも言われており、かつての栄光とはかけ離れた苦難の生活を余儀なくされました。しかし、信雄はここでも、その驚異的な生き抜く力を見せます。
豊臣秀吉の死後、徳川家康が天下を掌握すると、信雄の運命に再び転機が訪れます。家康は、かつて小牧・長久手の戦いで共に戦った信雄を赦し、わずかではありますが大名として復帰させました。そして、慶長19年(1614年)から始まる大坂の陣においては、豊臣方からの誘いもあったと言われていますが、信雄は徳川方として参陣します。これは、信雄の現実的な判断であり、もはや豊臣家に未来がないことを悟っていたからかもしれません。乱世の最後の大きな戦いを、信雄は徳川方として見つめました。
激動を生き抜いた長寿の武将
織田信雄は、一般的には「凡庸な人物」と評されることが多いです。偉大な父・信長や、天才的な手腕を発揮した秀吉、そして老獪な家康といった、歴史上の傑物たちと比べると、確かにその器量は見劣りしたかもしれません。しかし、彼はその凡庸さと評される中で、驚異的な生き抜く力を見せました。
偉大な父の影に苦しみ、清洲会議のような権力争いを経験し、小牧・長久手の戦いでは大きな判断ミスを犯し、改易という苦難を経験しました。それでも、彼は時代の大きな波に翻弄されながらも、決して溺れることなく、自身の命運を切り開き、大名として生き残ったのです。長寿を保ち、泰平の世を長く生きたことも、信雄の大きな特徴です。それは、彼の持つ、ある種の器用さ、世渡りの上手さ、そして何よりも生きることへの執着が成し遂げたことかもしれません。
凡庸と呼ばれても、確かに生きた
織田信雄の生涯は、偉大な父の影に苦悩し、時代の波に翻弄されながらも、自身の力で生き抜いた一人の人間の物語です。彼は、歴史上の英雄たちのような輝きはなかったかもしれませんが、その波乱に満ちた生涯は、私たちに多くのことを語りかけます。
「凡庸」と評されることの意味。偉大な存在と比較されることの苦悩。困難な状況でも諦めずに生き抜くこと。そして、必ずしも天才でなくても、時代の変化に適応し、自身の役割を見出すことの重要性。織田信雄は、良くも悪くも、激動の時代を器用に、そしてしぶとく生き抜きました。
織田信長という巨星の子として生まれ、凡庸と称されながらも、激動の時代を生き抜き、大名として家を存続させた織田信雄。彼の生涯は、歴史の裏側で確かに存在した、様々な人間たちの生き様を私たちに教えてくれています。凡庸と呼ばれても、彼は確かにこの時代を生き、自身の足跡を残しました。
この記事を読んでいただきありがとうございました。
コメント