信仰に生きた異端の武将、明石全登

戦国武将一覧

戦国の世は、まさに群雄割拠。それぞれの思惑が交錯し、命運が激しく移り変わる激動の時代でした。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった綺羅星のごとき大名たちが天下を目指す一方で、それぞれの主君に仕え、あるいは己の信念に従って激動の波間を生き抜いた数多の武将たちがおりました。武将たちの生き様は、単なる武勇伝にとどまらず、人間の弱さや強さ、そして時代に翻弄される哀しみをも映し出しています。

今回、ご紹介するのは、そんな戦国乱世にあって、ひときわ異彩を放つ武将、明石全登(あかし たけのり)殿です。明石全登の名は、三英傑に比べれば、もしかすると広く知られてはいないかもしれません。しかし、明石全登の生涯に触れるとき、私たちは激しい戦乱の陰で、自らの信仰と武士としての道を貫こうとした、ある男の孤高な魂の輝きを感じずにはいられません。

宇喜多の家中、そしてキリシタンとしての道

明石全登は、備前岡山の大名である宇喜多秀家(うきた ひでいえ)殿に仕えました。宇喜多秀家は、若くして豊臣秀吉殿の後継者候補とも目され、五大老の一人に名を連ねるほどの人物です。明石全登は、そんな宇喜多家の家臣団にあって、知略に長け、武勇にも優れた人物として重きをなしていたといわれます。宇喜多秀家が豊臣秀吉から厚い信任を得る中で、明石全登もまた、豊臣政権下でその能力を発揮する機会を得ていたことでしょう。

明石全登を語る上で欠かせないのが、明石全登の篤いキリシタン信仰です。洗礼名を持つ明石全登は、当時の多くの武将が時勢に応じて宗旨を変えることもあった中で、その信仰を生涯にわたって貫き通しました。

戦国時代において、キリスト教は南蛮貿易とも結びつき、新たな文化や知識をもたらす一方で、時の権力者にとっては警戒の対象ともなりうるものでした。そうした時代背景の中で、明石全登が信仰を保ち続けることは、決して容易なことではなかったはずです。

信仰は、明石全登にとって単なる心の拠り所ではなく、生き方の指針であり、己を律する精神的な柱となっていたのではないでしょうか。

関ヶ原に散った主家の夢

豊臣秀吉が世を去り、徳川家康殿との間に緊張が高まると、明石全登が仕える宇喜多秀家は、石田三成殿を盟主とする西軍に加わります。そして迎えた慶長五年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いです。明石全登は、宇喜多隊の一翼を担い、この歴史的な合戦に臨みました。

関ヶ原の戦いにおいて、宇喜多隊は西軍の中でも屈指の奮戦を見せたといわれます。明石全登もまた、この戦場で自らの武勇を示し、徳川方の大軍を相手に一歩も引かぬ戦いを繰り広げました。しかし、歴史は非情です。小早川秀秋殿の寝返りなどもあり、戦局は西軍にとって絶望的なものとなります。宇喜多隊は壊滅し、主君・宇喜多秀家は戦場を離脱。明石全登もまた、関ヶ原の敗将として、その後の表舞台から姿を消すことになります。

関ヶ原の敗戦は、明石全登にとって、武将としてのキャリアの挫折であると同時に、主家である宇喜多家の没落という厳しい現実を突きつけるものでした。

明石全登はその後、しばらくの間、各地を潜伏して過ごしたといわれています。主君への忠誠心と、キリシタンとしての信仰を胸に抱きながら、乱世の荒波に漂う明石全登の心境は、いかばかりであったかと想像せずにはいられません。

大坂に燃えた最後の魂

時が流れ、慶長十九年(1614年)、豊臣家と徳川家の対立が再び激化し、大坂冬の陣が勃発します。各地に潜伏していた旧豊臣系の大名や武将たちが、豊臣秀頼殿のもとに馳せ参じました。このとき、明石全登もまた、迷うことなく大坂城に入城します。関ヶ原の敗戦から十四年の歳月を経て、明石全登は再び、豊臣家のために戦う道を選んだのです。

大坂の陣において、明石全登は浪人衆ながらも重要な役割を担いました。特に慶長二十年(1615年)の大坂夏の陣、道明寺の戦いにおける明石全登の活躍は、今なお語り草となっています。薄田兼相殿や後藤又兵衛基次殿といった他の武将たちが次々と討死する絶望的な戦況の中、明石全登は寡兵ながらも徳川方の大軍に果敢に立ち向かいました。明石全登の部隊は、キリシタン武将で構成されていたともいわれ、信仰に燃える彼らの士気は極めて高かったと伝えられています。

明石全登は、この道明寺の戦いで壮絶な最期を遂げたとされていますが、その詳細な最期については諸説あり、はっきりとしたことは分かっていません。「討死した」とも、「戦場を離脱し、その後は消息不明となった」ともいわれています。

しかし、いずれにしても、明石全登が大坂の陣で豊臣家のために最後まで戦い抜いたことは間違いありません。主君・宇喜多秀家が遠く八丈島に流罪となった後も、豊臣家への忠義を捨てず、自らの命を賭して大坂の地に散った明石全登。明石全登の生き様は、武士としての誇りと、信仰に裏打ちされた強い信念の証左といえるでしょう。

信仰と武士道の狭間で貫いた道

明石全登の生涯は、まさに信仰と武士道という二つの道を、乱世の中でどのように歩むかという葛藤の連続であったかもしれません。キリシタンとして神への愛を説かれながらも、武士として主君への忠誠を求められる。平和な時代であれば両立できたことも、戦乱の中では厳しい選択を迫られる場面もあったはずです。

それでも、明石全登は最後まで自らの道を曲げませんでした。宇喜多家への忠義、そして豊臣家への恩義。それに加えて、キリシタンとしての信仰が、明石全登を突き動かす大きな力となっていたことは想像に難くありません。明石全登の内に燃えていたのは、単なる武功への渇望ではなく、信じるもののために全てを捧げるという、清冽な魂の輝きではなかったでしょうか。

乱世を駆け抜けた孤高の星

明石全登の生涯は、激動の戦国時代にあって、信仰と武士道という己の信念を貫き通した、一人の武将の物語です。その最期が明確ではないことは、かえって明石全登の存在を神秘的なものにし、私たちの想像力を掻き立てます。もし明石全登が戦場を生き延びていたとしたら、どのような人生を送ったのでしょうか。あるいは、信仰のために殉じたのだとしたら、それは明石全登にとって本望であったのでしょうか。

戦国という時代は、多くの英雄を生み出す一方で、明石全登のように、自らの信じた道のために全てを捧げた、知られざる無数の人々がいたことを教えてくれます。明石全登の生き様は、私たちに「何を信じ、何のために生きるのか」という根源的な問いを投げかけているのかもしれません。乱世の空に、一瞬の煌めきを放ち、そして消えていった孤高の星。明石全登の魂は、今もなお、静かに私たちの心に語りかけてくるかのようです。

この記事を読んでいただきありがとうございました。

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