豊臣秀吉 辞世の句です。

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戦国武将 辞世の句

名もなき庶民から織田信長の配下になり、 清洲城の普請奉行、台所奉行などを率先して引き受けて大きな成果を挙げ頭角を現すことになります。
優れた才能を発揮し、斎藤氏と戦った際は墨俣に一夜にして城を築いたとされ、信長に重用されました。その後も数々の戦いで功を挙げ、織田家の重臣として出世を重ねます。敵であろうと優れた者には手を差し伸べ、敵をも味方に変えてしまう秀吉は、心でぶつかりあい、人の心を動かすことのできる、魅力あふれる人物でありました。智将として名高く奇抜な作戦や、水攻め兵糧攻めなどの計略をもって仲間の損害を最小限に抑える戦いを好んでいます。
織田信長が本能寺の変で明智光秀に謀反にあい自害したと 聞くと、備中(現在の岡山県高松)で毛利氏と戦っていた豊臣秀吉は、すぐさま高松城城主・清水宗治の切腹を条件にして毛利輝元と講和し、京都に軍を返しました(中国大返し)言われています。
その後、明智光秀を討ちとり信長の後継者として台頭します。織田家内部で勢力争いのなかで徳川家康と戦いますが決着がつかず和睦しました。
関白となり天皇から大名間の戦いや一揆をすべてまかされた後、検地や刀狩を行い、小田原の北条氏を破り天下統一を達成しましたが、名を残したいという野望は留まらず、朝鮮侵略に乗り出してしまいました。朝鮮侵略にこだわり二度行っていますが、失敗しています。
1598年に幼い秀頼(子)の身を案じつつ、京都の伏見城で生涯を終えました。
豊臣秀吉の辞世の句です。

露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢

 


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