水戸城

茨城県と言えば水戸。茨城県は旧常陸国。常陸国の有名大名は佐竹氏。と言うわけで、水戸城は佐竹氏の本拠地と思われがちですが、意外とそうでもありません。
築城の経緯と構造
1200年になる少し前、馬場氏によって築かれたとされています。以来馬場氏の居城であり、馬場城と呼ばれていました。水戸城と名を改めるのは、佐竹氏が治めるようになってからです。
水戸城は丘に建てられてはいますが、周囲は平地となっています。防御力としては山城の方が高いのですが、交易の点では平地であったことが幸いしたかも知れません。
また、北には川が流れ、南には湖がありますので、敵の進入口は制限され、地形としては守りに適したところに作られています。
江戸幕府になると、小田原城や江戸城などが石垣で補強されていきますが、水戸城は土塁のままでした。奥州方面への抑えという性格も持ってはいましたが、そこまで防御は重視されなかったようです。
水戸城を取り巻く戦い
水戸城の主であった馬場氏ですが、戦国時代に入るより少し前、鎌倉公方と関東管領による大きな戦いがありました。それは関東地方に大きな影響を与えていますが、水戸城も例外ではありません。
馬場氏は関東管領に味方していましたが、鎌倉公方に付いたのが江戸氏でした。戦争は関東管領の敗北で終わります。馬場氏も江戸氏に敗れ、城を奪われました。これ以降、百七十年ほどの間、水戸城は江戸氏の居城となります。
江戸氏は佐竹氏とは結びつきが強く、大半の時期をその従属下に過ごしていますが、決して忠実な家臣とは言えませんでした。
たびたび戦火を交えており、南北朝の争乱の時には佐竹氏によって一族が討ち取られていきました。戦国時代の頃になっても、佐竹慶篤の代には江戸氏が佐竹氏の領地を攻めています。結局は佐竹氏の方が力が強く、混乱に乗じて力を見せつけはしますが、また佐竹氏に従うことを繰り返しました。
佐竹氏が慶篤から義昭に代替わりした際にも反旗を翻し、数年の交戦の後に復帰しています。
水戸城の城主としての江戸氏の最後の戦いは、佐竹義宣の時代になります。
江戸氏は佐竹氏に従っていましたが、そうすると佐竹氏と敵対していた北条氏を敵に回すことになります。両氏の間で生き残りを図っていた江戸氏は、北条氏の要請を無視できませんでした。
豊臣秀吉による小田原征伐の際、江戸氏は参陣を見送ったのです。一方で佐竹氏は豊臣氏に忠実な姿勢を見せました。これにより、佐竹氏には常陸一国が与えられました。
こうして佐竹氏には江戸氏を攻略する大義名分が与えられ、義宣によって成し遂げられたのです。
水戸城は佐竹氏の城と見られることも多いのですが、実際に水戸城に佐竹氏が入っていたのは、この後の十年足らずでした。
関ヶ原の合戦で立場を明確にしなかった事で、佐竹氏は秋田へと転封となりました。水戸城は徳川氏の一族が治めることとなったのです。
水戸黄門
時代劇にもなった水戸黄門ですが、出身は水戸城でした。
歴史上の資料としては、水戸黄門が諸国漫遊の旅に出ていたという事実は確認できないようですが、その変わった事跡から、当時の人々から名君と慕われていたようです。
水戸黄門自身が出向いたのではないにしろ、学者を国内に送り出し、様々な歴史資料を収集させています。それらの史料は編纂され、後に『大日本史』として発表されました。この歴史観、天皇家への思いが水戸学となり、幕末時代にも大きな影響を与えました。
水戸黄門は当時から現代までの多くの人々に親しまれ、テレビでは何度も役者を替えて長い間放送されました。その先駆けとも言うべき映画が、1961年に撮影され、そこで発想を得て、茨城県水戸市では、それまでの七夕祭りを『七夕黄門祭り』として開催するようになりました。
このお祭りは以来毎年続けられ、幾度かの調整の後、現在の『水戸黄門祭り』として、毎年八月に開催されるようになったのです。











