茨城県の常陸太田市にあった城です。その歴史のほとんどを佐竹氏の居城として過ごし、江戸時代の廃城まで、佐竹氏と共にありました。
佐竹氏の入城
太田城は、1100年頃に藤原氏によって築城されたと見られています。それから程なくして、佐竹氏が城主となります。
佐竹氏の祖は、甲斐源氏の武田信玄と同じく、源義光に繋がります。義光は常陸の有力者であった平氏と婚姻を結び、勢力基盤を築きました。
義光は源氏の棟梁の座を狙って陰謀を企て、甥や兄を死に追いやったと言われています。その策謀は実に込み入ったものでした。戦国時代に名を馳せた謀略家、毛利元就や尼子経久にも劣らないものです。
家来を一人甥の下に潜り込ませ、刀を盗ませました。それを別な手下に与え、棟梁であった義忠を暗殺させたのです。
用いられた刀から、甥が怪しまれました。義光は、義忠の養子の後見として、兵を率いて討伐しました。刀を盗んだ者も討たれ、暗殺の実行犯も口封じをされるという有様で、完全犯罪まであと一歩でした。
ところが事は露見し、義光は常陸へと逃げ去ったというのです。
義光達の本拠地は佐竹郷という地であり、孫の昌義の代になり、姓を佐竹と変えています。昌義は佐竹氏の勢力拡大に尽力し、藤原氏から太田城を接収し本拠地としたほか、七郡の領主となっています。
佐竹氏の隆盛
常陸国の有力者となった佐竹氏ですが、源頼朝の時代には、親交のあった平氏に味方したため、敗北して滅亡の危機に瀕しました。
かろうじて許され、常陸国北部への攻撃は免れましたが、南部には頼朝の将であった八田知家が封じられました。この八田氏が本拠地を小田に移してから名乗ったのが小田氏であり、その末裔が、戦国時代の最後まで佐竹氏と確執のあった小田氏になります。
鎌倉時代以降は源氏の一門として過ごし、常陸守護職を与えられて戦国時代を迎えます。
戦国時代の佐竹氏は名君に恵まれました。義舜、義篤、義昭、義重、義宣と続き、危機の時代を乗り切ったのです。ただ、問題があったとすれば、義昭までの三代には時間がありませんでした。二人は四十代、義昭は三十半ばで没しています。
佐竹氏の居城としては水戸城も知られていますが、水戸城が佐竹氏の支配下にあったのはごくわずかな期間でした。長い間佐竹氏の従属下にあった江戸氏の居城であり、佐竹氏は歴史のほぼ全てを太田城で過ごしたのです。
廃城
戦国時代の多くの城が1600年を過ぎた頃から廃城となっていきます。戦国の世が終わり太平が訪れると共に、徳川家康の政策により、各国の軍事力を制限するようになったからです。
しかしその本格的な措置である、一国一城令の発令より前に、太田城は廃されました。1602年の廃城とありますので、佐竹氏の秋田転封の後ということになるでしょうか。
早くから豊臣秀吉に従い、常陸一国を与えられた佐竹氏でしたが、そのためか豊臣氏と徳川氏の戦いでは曖昧な態度を取ってしまいました。その結果関ヶ原の合戦の後、佐竹氏は秋田へと移されることになりました。
そのときすでに水戸城を本拠地へと移していましたので、一国一城令が発せられれば、残されたのは水戸城だったかも知れませんが、この早い段階ではまだ廃城されなかったのではないかと思われます。
佐竹氏にとっては先祖伝来の城ですが、新領主にとっては重要ではなかったのでしょうから。とはいえその後も、城としてではなく、一部が御殿として利用されたようです。
太田城には別名があり、佐竹城とか、舞鶴城とも呼ばれました。佐竹郷にある佐竹氏の城だから佐竹城というのはわかりやすいですが、舞鶴城というのは、佐竹氏が最初に入場する際に、空を鶴が舞ったことからつけられた名だそうです。