旧姓名は、教来石(きょうらいし) 景政。武田四天王の一人。信虎、信玄、勝頼の三代に仕えています。
祖先は美濃国から諏訪との国境近くの甲斐国の教来石村に移り、教来石氏を名乗っていました。信虎の時代は、信玄の初陣、海ノ口城攻めに参加し武功をあげ、信玄の父 、信虎追放の際には重要な役割を果たしたといわれています。
信玄の時代に信房は数多くの武功によって、それまで名跡が途絶えていた武田家譜代の名門である馬場氏を継ぐことを許されました。名も信房と改名し、馬場信房となります。
山本勘助に築城術を学び、築城術に優れていたためか、坑道掘削による攻城も得意としていました。勘助死後は、深志城、牧之島城、諏訪原上など武田の支城を一手に引き受け後世に築城の名手とまでいわれたそうです。
そして、ただ武勇に優れていた武将ではありませんでした。鬼虎と異名された小幡虎盛より戦術や合戦の駆け引きなどを学び「川中島の戦い」では 山本勘助 と共に「啄木鳥の戦法(挟み撃ち)」の別働隊を指揮、北条家や徳川家との戦いでも先陣を務め、目覚しい活躍をしました。
指揮能力の高さと家中でも特に智謀優れた名将であったことから「一国の太守の器量人」とまで賞賛されています。原虎胤の死後、虎胤にあやかり美濃守の名乗りを許され、馬場美濃守信春と改名しました。
川中島の戦い、三方ヶ原の戦い等々、主要な戦いのほとんどに参戦。生涯七十余の合戦で傷一つ負わなかったことで、不死身の鬼美濃と呼ばれていたそうです。
武田家が今川家の駿河を陥落させた時、信玄が城にあった財宝を運び出すよう命じました。しかしそれを聞いた信春は「貪欲な者よと後世の物笑いになる」と言って逆に財宝を全て焼き払います。後世の名を汚すようなことは、たとえ主の命令でも行わない。人間としての器の大きさを感じさせます。そのことを伝え聞いた信玄は「後世の名を惜しむとはさすがは信春、七歳上なだけはある」、財宝より武田の名を惜しんだ信春の行為に深く自分を恥じたといいます。
信玄が死去すると、山県昌景と共に重臣筆頭として武田勝頼を補佐するが、山県と同じく、勝頼からは疎まれていました。
「長篠の戦い」では、他の古参の家臣と共に決戦を避けて甲斐に帰陣するよう諫言しますが聞き入れられず、有能な人材を次々と失いながら武田家は壊滅的な打撃を受けます。
退却する勝頼の無事を見届けると、殿軍を務めていた信春は反転して追撃の織田軍と戦い、壮絶な最後を遂げました。「信長公記」に「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と評される最期でした。