高坂昌信

戦国時代の武将。武田四名臣の一人で、武田家二十四将の一人でもあります。信玄、勝頼と二代に仕えました。山梨県の石和の豪農で春日大隅の息子で、春日虎綱といいました。父が他界したあと遺産相続問題で姉夫婦との諍いにやぶれ、身内を失いましたが、主君の一番近くに仕える奥近習として十六歳で信玄に召し抱えられます。
大変な美童で信玄の寵愛も深く、信玄が他の近習を相手の浮気を詫びた「誓詞」が残っているほどです。主君の寵愛に甘えることなく精進し、武功をあげ、次第に頭角を現しました。
信濃攻めにも参加し、虎綱は、信濃小諸城の城代、越後上杉氏に対する最前線の海津城の城代となり、高坂氏の名跡継承を許され、高坂姓を名乗る。武田家には、弾正とよばれる武将が三人いて、真田弾正忠幸隆、保科弾正忠正俊、高坂弾正忠昌信で、幸隆は攻めの弾正、正俊は槍の弾正、昌信は逃げの弾正です。
逃げの弾正とは、臆病者のイメージに思われがちですが、確実な情報をもとに、決して強引な攻めをしない戦いぶりと、有能で殿を務めることが多かったからともいわれています。合戦に際して情報を集め、無駄なく慎重な決断ができる冷静沈着な性格ですが、いざ合戦が始まると先鋒をつとめ、勝利に大きく貢献しています。
武田信玄から最も信頼されていて、第四次川中島の戦いでは上杉謙信に対する最前線の守備である海津城主を任されています。海津城にあって、上杉謙信の出陣を甲府の信玄に伝えると、海津の守りを固めて攻撃に備えます。
上杉謙信の部隊と真正面から戦うことのできる胆力の持ち主でした。海津城を任された時に、信州の名族である高坂氏を名乗るようになりました。戦闘では妻女山の別働隊として戦い、多くの名将が討死して敗戦の色が濃くなった信玄軍を助けます。
信玄亡き後、勝頼に仕えたが勝頼の家臣からは疎まれることもあったようです。昌信は、織田・徳川軍との長篠の戦いでは、守備を任され参戦はしませんでしたが、大敗を喫して命からがら悲惨な姿で逃げ帰ってきた勝頼を途中で出迎え、新しい馬具甲冑を用意し、勝利して凱旋したかのごとく入城させ、敗戦の見苦しさを感じさせぬよう気配りをしたといいます。
武田氏の歴史や戦術、戦略また家臣達の逸話や、武田家の儀礼に関する記述も豊な軍学書の「甲陽軍艦」も、武田家の行く末を危惧した昌信が、口述しものが基になった書物とされ、昌信の死後も甥の春日惣次郎らにより執筆が継続されていきました。
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