羽柴秀長

秀吉の片腕として辣腕を発揮し、文武両面での活躍を見せて、秀吉の天下統一に貢献しました。
秀吉の異父弟で、初陣は美濃鵜沼城攻めだといわれています。墨俣城攻防で、兄と共に奮戦し秀吉の家臣として活躍します。 秀吉が浅井氏を滅ぼした功により長浜城主となると、秀吉の片腕として城代を務めてもいます。数年後には秀長の右腕となる藤堂高虎が仕官しています。
秀吉の代理人として、四国攻めでは十万を超える軍勢の総大将に任じられ、長宗我部元親と戦いますが、苦戦します。戦況を心配した秀吉からの援軍を断り、名将相手に奮戦。長宗我部元親を降しました。
その功績を賞され、大和国を加増されて郡山城に入ります。その後、九州平定戦も先鋒の大将をつとめた秀長が島津軍と戦い、その後、島津家久が講和に秀長を訪ね、日向方面の進軍を完了する手腕をみせました。
秀吉としても一番信頼できる家臣だったことは間違ありません。秀吉子飼いの大名や外様の大名まで秀長を尊敬していて、 周囲の信頼が非常に厚かったようです。温和な人格力と政治手腕で織田家家臣の時代から、有能な補佐役・調停役に徹し常に秀吉を支え続け、豊臣政権の基盤を作りあげました。秀吉の補佐役として、絶大な能力を発揮します。
戦で負け知らず、内政手腕も高く評価されていた秀長ですが、秀吉の天下統一を待たず、大和郡山城内で病死。享年五十二歳でした。秀吉は弟秀長の死を聞いて「片腕を失った」といいながら号泣したと伝えられています。

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