結城晴朝

関東の大名としては、結城氏最後の当主となります。北条氏と上杉氏という二大勢力の狭間で漂いながらも存続し、豊臣秀吉に従うことになります。

誕生から家督相続まで

生年は1534年。父は小山高朝です。
当時の結城氏は、結城政勝が当主を務めていました。高朝は、政勝の弟です。結城氏は古河公方と縁が深く、古河公方の大きな戦いにはいつも名を連ねていました。
鎌倉公方と関東管領が争い、幕府の介入もあって鎌倉公方が滅亡した際に、その遺児を擁して兵を挙げたのが結城氏でした。以来結城氏と古河公方の関係は深く、政勝の先代、政朝の代では古河公方のお家騒動にも介入しており、結城氏の活躍が決着に大きく貢献しました。
しかし、古河公方や関東管領が権力闘争で疲弊している間に、今川氏を後ろ盾とした後北条氏の伸張を許してしまい、それによって関東の勢力図が塗り替えられていくことになります。
政勝は北条氏と結んで関東諸大名と争い、勢力を拡大していきました。しかし男子が一人しかおらず、その子も早世してしまったため、弟の子を養子としました。それが晴朝です。
1559年、政勝が没したことで晴朝が当主となりました。

巨大勢力の狭間で

政勝、晴朝の時代は、結城氏にとって飛躍の時代でした。特に晴朝は中興の祖と呼ばれるほどの活躍を見せ、結城氏の勢力を拡大しました。
しかし晴朝の時代は北条氏康と上杉謙信の時代でした。二大勢力の狭間で、結城氏は身の振り方を考えねばなりませんでした。
初期の晴朝は北条氏に与していました。代々古河公方と関係が深かった結城氏ですので、傀儡とは言え古河公方を支配下に置いている北条氏に味方するのが筋だったのかも知れません。あるいは、単純に領地が北条氏の方に近かったため、そちらに従う必要があったことも考えられます。
結城氏が方針を転換するのは、謙信が関東管領になった頃でした。
政治的な意味合いとしては、関東管領が足利義氏を古河公方として認めないという態度が影響したかも知れません。関東管領を任じるのは古河公方の職権であり、謙信を関東管領としたのは義氏の兄藤氏でした。古河公方が二人になっていたのです。謙信に味方しても代々の政略に背かずにすむようになりました。
以来、一時的に北条氏に降伏することはあっても、結城氏は反北条勢力として戦い続けることになります。
もちろん、結城氏だけでは支えきれない強大な敵ですので、宇都宮氏や佐竹氏などとの婚姻同盟を駆使し、連合を組んだのです。

結城氏の家名の行方

結城氏は頼朝の血筋を引くという名家であり、鎌倉時代の初期からその地を領有していました。しかし晴朝には男子がなく、世継ぎに恵まれませんでした。一度は他家から後継者を養子にもらったのですが、それを変更します。
このような後継者の変更は混乱をもたらすものですが、このときは大事には至らなかったようです。何しろ、もらってきた新しい養子というのが、徳川家康の次男にして豊臣秀吉の養子になっていた、秀康です。誰も文句はつけられません。
しかしながら、これが晴朝を嘆かせました。後に征夷大将軍となる家康の子が家督を継いだのですから、その点では安泰です。しかし、徳川氏の血筋であることが大きな価値を持ちすぎた故に、秀康の代、もしくはその次の世代で松平への改姓がなされました。このときすでに関ヶ原の合戦も終わり、結城氏の所領は越前へと移されています。
結城氏は代々続いた結城の地も、結城の名も失ったのです。家康は晴朝から願いを受け、秀康の五男、直基に結城氏の家督を継がせました。直基も結局は松平に改姓してしまうのですが、家紋は結城氏のものを使い続けたそうです。
晴朝が亡くなったのは1614年。八十歳まで生きたようです。晩年には結城氏の家系図や家伝を編纂し、故郷への復帰を願っていたといいます。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

ページ上部へ戻る