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小田原城

歴史上でも名高い名城として知られています。戦国時代の後北条氏の本拠地であり、その統治を支えました。

築城の経緯と構造

小田原城の築城者は、正確には知られていないようです。平安時代に小早川氏が館を建てたとされ、その後に大森氏が奪って拠点としました。
小田原城が歴史的に有名になるのは、北条早雲が大森氏からこの城を奪い取り、子の北条氏綱が本拠地と定めてからです。
北条氏は小田原城の防御力を重視し、幾度もの改修を行い、巨大化させていきました。最終的には小田原城下を城郭で取り囲むほどになり、豊臣秀吉の手も焼かせることになりました。しかし、実際に北条氏の時代に、小田原城がどのような姿をしていたかはあまりよく分かっていません。
というのも、豊臣秀吉によって北条氏が降伏させられて以降、このあたりは徳川家康の領地となりました。小田原城を任されたのは、その家臣大久保忠世でした。
江戸時代にも改修が行われ、現在知ることのできる姿のほとんどは、これ以降のものなのです。全体が石垣となるほどの巨大な要塞と化し、石垣の産出量が少なかった関東地方では、このような石垣の城は、小田原城と江戸城くらいしかありません。
小田原城の本丸とは別に、八幡山に支城が築かれていますが、ここは石垣では組まれなかったようです。小田原を任された大久保氏は、本丸の改修には熱心でしたが、八幡山には手をつけなかったからです。
それ以前に、強大すぎる城が江戸の側にあることを嫌ったともいわれています。

小田原城を巡る歴史

小田原城を中心とした戦いが、歴史上に三度あります。
一つが1561年の、長尾景虎による包囲戦です。古河公方を傀儡化し、関東管領を追いやった北条氏康に対して、後の上杉謙信である景虎が戦争を仕掛けました。北条氏を脅威と見なす関東の諸勢力も引き連れて、十万を超す大軍で小田原城を包囲しました。
しかしこれだけの戦力をもってしても力攻めをするわけにはいかず、かといって多すぎる戦力は維持も難しく、一月足らずで包囲を解きました。
二つ目が武田信玄による攻撃です。小田原城の防御力を心得ているからか、信玄も本格的な攻撃は仕掛けず、短期間で引き上げました。ただしこのときは北条軍の追撃部隊を、信玄が撃破しています。
そして三つ目、かの有名な小田原遠征です。豊臣秀吉の二十万の大軍が、関東の平定のために遠征してきました。これに備えて準備したというのが、城下を取り囲む総構です。つまり、謙信や信玄の時代は、まだ総構もなく、それでも大軍を支えたことになります。
小田原城の防御力はすでに実証済みであり、総構によってそれはさらに強化されているのですが、それでも北条氏は降伏せざるを得ませんでした。時はもはや乱世ではなく、長期間大軍を遠征させたからといって、他勢力に後背を脅かされるような時代ではありません。
小田原城がいくら堅固でも、少しずつ支城を落とされ、勢力圏が縮小していけば、いつかは限界が来ます。

その後の小田原城

江戸に近いということで、強すぎる城は警戒されましたが、それでも小田原城の防御力は重視されました。小田原城は、箱根の防御も兼ねていたのです。
もし幕府が西から攻撃を受ける場合、敵は箱根の峠を越えて、やっと平地に降りてきたときに目にするのが小田原城です。つまり、小田原城が落ちない限り、橋頭堡は築けないのです。
敵を箱根で食い止めるには、小田原城の防御力が必要でした。
明治になると廃城とされ、取り壊されていきました。第二次世界大戦の後、公園として整備されていきます。タイからは一頭の象を購入し、ウメ子と名付けられました。ウメ子は2009年に亡くなるまで、およそ六十年間、小田原城址公園で飼育されたのです。
昔、史跡を動物園にするのはいかがなものかと、政府の方からは注意を受けたようです。ウメ子がいなくなったら動物園はやめるということになっていたようですが、その後はニホンザルを飼育しているとかで、動物園は続いているそうな。
現代は、そのあたりにはだいぶ緩くなったおかげでしょうか。

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