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前田利家

織田信長の家臣の中でも有名な人物で、最終的には豊臣秀吉の家臣の中でも最も信を置かれる立場になりました。しかしなかなかに不思議な経歴の持ち主だったりします。

出自

1538年に、前田利春の四男として誕生しました。四男ということもあって利家は、前田家の跡取りではありませんでしたが、そのせいかどうか、まるで一兵卒のような武勇を身につけました。元服するより前に合戦で首級を挙げ、元服した後もたびたび敵兵を討ち取っています。一度などは顔に矢が刺さったまま奮戦したともいわれており、そういった武勇を評して、「槍の又左」の異名を取りました。
桶狭間の前年、信長の茶坊主を斬り殺すという事件を起こしました。重なる無礼に利家が我慢ならなくなってのことのようで、出仕停止処分が下されます。
処分中のまま、無断で桶狭間の合戦に参加し、さらに斉藤氏との戦いにも無断参戦してそのたびに首級を挙げました。ここでようやく帰参を許されます。
それから後、1569年に前田家の家督を、信長の命で継ぐことになります。父の後を継いでいた利久は武勇に優れず、病弱であったため、利家が適任だと判断されたようです。

信長の家臣として

数々の重要な戦いに名を連ねています。浅井・朝倉連合軍との戦いから本願寺戦、武田勝頼との長篠合戦など、織田氏の命運をかけた戦いを経験したのち、柴田勝家の与力として北陸方面軍の支えとなりました。
本能寺の前年には信長によって能登二十三万石を与えられています。

本能寺の変が起来たとき、利家は勝家共々魚津城を攻略中でした。すぐに兵をとって返すことのできなかった北陸方面軍は明智光秀討伐に参加することはできず、その後の織田氏の秩序を清洲会議で決着させる運びとなります。
しかし清洲会議が終わってすぐにそれぞれの思惑が交錯して虚実が入り乱れ、半年後には秀吉と勝家の間で先端が開かれます。
戦いは賤ヶ岳で最高潮を迎え、ここで秀吉と勝家の間で決着がつけられました。戦いはまさに激戦でしたが、兵五千を保持していた利家の突如の撤退によって決定づけられ、秀吉が勝利し、勝家はすぐに自害に追い込まれました。

秀吉と利家

賤ヶ岳での利家の行動の動機は、よく分かっていません。利家は「親父殿」と呼んで勝家を慕っていたといいますし、本心から裏切りたいと思っていたわけではないはずです。
かといって秀吉とも長いつきあいで、子がなかった秀吉に養女をだしたほどです。
秀吉がまだ信長の家来になって間もない頃、利家と秀吉の家は隣同士だったといいます。かぶき者だったという利家は変わり者で、だからこそ身分や家柄にもこだわらず、秀吉とも付き合いがありました。
信長の居城が安土城に移っても、やはり二人の家はすぐ側で、親交も続きました。
秀吉が天下人となる過程でも、なってからでも利家の活躍が見られますが、そこには常に徳川家康の名前も並んで出てきます。実力的には利家を超える家康でしたが、秀吉の信頼を強く受けていたのは利家の方だったようです。
後に家康方につく加藤清正らも、利家存命中は石田三成との抗争も自重が見られます。

ただただ、利につられて寝返ったのであれば、利家にそれほどの価値があったかは難しいところです。二人の間には、本気で殺し合いをするのをためらわせるような、そういう関係があったのではないかと思われます。

晩年

死の前年に家督を利長に譲りましたが、隠居して静かに暮らすというわけにはいかず、最後まで五大老としての職務に追われました。
秀吉が亡くなるとすぐに家康に動きが見られ、その動きを牽制しました。もはや家康に圧力をかけられるのは利家くらいで、このときは誓紙を交わして和解しました。しかしその後まもなく利家が病没したのが、1599年。翌1600年は関ヶ原の合戦で知られています。
享年は六十二でした。
秀吉が利家について「無類の律義者」と評しています。人間的に魅力があり、人に好かれる武将だったのではないでしょうか。



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