日本で最も有名な城と言えるでしょう。徳川幕府の本拠地として知られ、現在では天皇家の皇居として使用されています。
築城の経緯と構造
江戸城は現在の東京都、皇居のあたりにありました。まさしく、現在の皇居が江戸城を改称したものだからです。
江戸城の築城者は戦国時代、扇谷上杉氏に仕えていた太田道灌です。しかし、この地に勢力を最初に張ったのは、江戸氏といわれています。江戸氏は平安時代から同地に館を構え領地を支配していましたが、鎌倉公方や古河公方と関東管領家の争いに巻き込まれて没落していきました。
その関東の騒乱、享徳の乱で太田道灌はいくつかの城を築きました。その一つが江戸城です。
古河公方に味方した房総の千葉氏に対する前線基地として建てられたのです。
築城当初の江戸城は、後に見られるような巨大なものではなく、石垣などもありませんでした。これが西の丸・三の丸・北の丸と拡張され、幾度もの改修工事を経て立派な姿になっていくのは、徳川家康の時代になってからです。
江戸城は本丸を中心とした城だけでなく、街全体を覆い、外界から堀と川で隔絶された総構えの城となりました。
江戸城の名前の変遷
江戸城は今や皇居と呼ばれていますが、このような名前になるまでには様々な過程がありました。
二百年あまりに及ぶ徳川幕府の統治の間、政治の中心は江戸城にありました。全国各地の大名達が参勤交代によって江戸に集まり、征夷大将軍の下、武家が集結していたことになります。
この時代の終わりが来るのは明治維新の頃、ペリー来航から始まる開国運動によってでした。
幕末志士たちの活動によって政治の中心が、幕府から朝廷へと戻り始めました。大政奉還によって江戸幕府は終わり、明治政府によって新しい日本が始まろうとしていました。しかし、いくら名目だけでなく、実権も朝廷に戻ったといっても、それまでの二百年間がなかったことになるわけではありませんでした。
当時の日本においても、最も大きく、力のある都市は江戸だったのです。将軍のお膝元としての地位を奪われた江戸市民が離散してしまうことは、国力の衰退に繋がりました。
新政府としても、巨大都市としての江戸を保持する必要があり、そのためには都を江戸に移し、天皇の威光を持って人々をつなぎ止める必要が感じられました。
そこで江戸に遷都することが提案されましたが、古来より天皇とともにあった京都の人々を捨てることも望ましくないということで、なかなか実現しませんでした。
江戸よりも京都に近い大阪に遷都することも考えられましたが、いくつかの理由でこれは退けられました。一つは、大阪は都にしなくても統治を維持できるが、江戸は放っておけば衰退してしまいそうであること。もう一つは、江戸には各藩の屋敷が集まり、政務施設も充実しているから新設の必要がないこと。
大久保利通などもこれに同意し、ゆっくりと計画は進められていきます。その第一歩が東京への改称と、東京行幸でした。江戸を京都に並ぶ東の都と定義した上で、一時的な行幸として天皇が東京へと移ったのです。保守派を刺激しないための妥協案でした。
天皇を迎えた江戸城は、東京城と名を改められました。
一時的な行幸である以上、京都への帰還、還幸も行われます。しかし、次第に天皇は東京を本拠とするようになり、京都に帰ることが少なくなっていきました。京都に残されていた政治機能も、一つ一つ東京へと移されていき、1871年までには首都機能は東京に集結しました。
このときすでに東京城は皇城と改称されており、明治宮殿の完成に伴って宮城とさらに改められました。この頃は天皇の即位の礼は京都で行われるものと定められており、大正天皇、昭和天皇共に京都において即位の礼を行いました。
しかし、第二次世界大戦の終結後に改められた皇室典範では、京都で行うとは規定されず、今上天皇は東京で即位の礼を行ったのです。
今のように皇居と呼ばれるようになったのは1948年。終戦の傷跡残る頃でした。
実は朝廷からも政府からも、正式に遷都をするという発表はされていません。そのため、現在も京都と東京の両方が都だとする説もありますし、それ故に遷都ではなく奠都とするのが相応しいという主張もあります。
また一方で、すでに事実上の遷都は行われていると見るのが妥当とする意見もあり、このあたりは学者達でも意見の相違があるようです。