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武田信虎

武田信玄の父です。信玄によって追放された暴君としてくらいしか知られていませんが、その活躍と生涯は大きく後世に影響を与えています。

誕生から家督相続まで

古くは遙か西国の安芸守護から始まった武田氏ですが、足利尊氏の時代に功があり、甲斐を与えられました。そのため、毛利氏と関わりの深い武田氏とは同族になります。
しかし世の習いとして長期政権を築くのは難しいもの。関東管領と鎌倉公方の騒乱に介入した結果、守護であり武田氏の当主だった信満が死に追いやられ、甲斐守護の力を失いました。
信虎が誕生したのは1494年頃。ちょうどこの頃は後北条氏の北条早雲が伊豆の堀越公方を攻めて、勢力の足がかりを作り始めた頃です。
これが武田氏家中にも影響を及ぼしています。信虎の父信縄は堀越公方や関東管領を支持し、信縄の弟信恵は早雲やその同盟者である今川氏と結びました。
こうして武田氏は兄弟で争うこととなり、この戦いは信虎が当主となるまで続きました。1507年に信縄が没したことで、信虎が当主となります。

甲斐統一

信虎の前半生は騒乱にまみれています。
当主となったばかりの1508年に、父と家督を争った叔父信恵を討ち取ると、武田氏のお家騒動を解消しました。
しかし、甲斐の混乱が収束したわけではなく、信虎は戦い続けることになります。甲斐の南に接する今川氏の力は強く、甲斐の国人たちには、今川氏に属する者もおりました。信縄の流れを汲む信虎ですから、今川氏としてみれば、自分に敵対する勢力になります。
信虎は国内の親今川派勢力の排除を目指しますが、芳しい成果は上げられませんでした。また、今川軍の侵攻を受けて敗北。今川氏としても遠江の戦いを抱えていたため、力を見せつけた後に和を結んで帰還しました。しかし、今川氏との確執はこれで終わるわけではなく、幾度にも渡って抗争が繰り返されました。
今川氏との最初の戦いが一段落したあと、信虎は新しい本拠地として躑躅ヶ崎館を建設しました。これは平地に建てられた館であり、あまり防御に優れてはいませんでしたが、背後に要害山城を築き、有事の際にはそこに籠もることとなっていました。
そして事実要害山城の防御力に頼るときが来ます。今川氏の福島正成の攻撃を受けた武田氏は、躑躅ヶ崎館を捨てて要害山城に籠もりました。このとき嫡男晴信が誕生しています。
武田今川の両氏は何度も戦いと停戦を繰り返しました。
そのような妨害の中、信虎は今川氏に服従する国人を一つ一つ降していき、ついには甲斐の統一を成し遂げたのです。

今川氏との同盟と追放

武田氏を取り巻く外交関係は、主に今川氏と、その友国後北条氏。そして関東管領である山内上杉氏と、扇谷上杉氏でした。今川氏と北条氏は敵。両上杉氏が味方でした。特に扇谷上杉氏からは娘をもらい、晴信の正室にしています。
今川氏や北条氏との戦いは1535年まで続けています。この年は信虎の方から駿河に侵攻しました。ところが、翌年になると、突如として今川氏との同盟が成立しました。
この年今川氏の当主が急死し、家督争いが生じました。この花倉の乱において、信虎は今川義元を支援しており、この段階で両者には密約があったものと思われます。
信虎の支援もあって無事に当主となった義元は、武田氏との同盟を維持するため、北条氏と争うこととなりました。信虎もこの同盟を重視し、関係の保持に努めました。
ところがあるとき、娘婿となった義元の下を訪れた信虎は、帰り道を晴信によって封鎖されてしまいました。嫡男から「帰ってくるな」と言われたのです。
こうして甲斐から追放された信虎ですが、その後の活動を追うことができます。
駿河で今川氏の世話になりながらも、たびたび上洛しては将軍家に仕えています。足利義輝に仕え、義輝が暗殺されて後は義昭にも従っているようです。義昭が信長に追放されてからは甲斐に戻り、高遠城で生を終えました。
武田信玄といえば戦国時代の有名人ですが、その飛躍の下地を整えていたのは父だったのです。

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