細川晴元

争いの末細川氏本家の家督を継ぎ、管領となった人物です。戦いにまみれた生涯でしたが、三好長慶に権力を簒奪されたということくらいしか知られていません。
誕生から家督相続まで
1514年に、細川澄元の子として誕生しました。澄元は阿波守護の細川氏の生まれでしたが、本家に当たる管領細川氏に養子に入りました。養父細川政元が暗殺されたことで、澄元と、同じく養子であった細川高国の間で継承戦争が勃発します。
戦いは高国の勝利で終わり、澄元の後見人であった三好之長は戦死、失意の澄元も実家の阿波に帰ったところで病没しました。
そのため、まだ七歳の晴元が後を継いだのです。
高国との戦い
之長の子三好元長に擁立され、晴元は阿波で機会をうかがいました。高国は讒言を信じて家臣を処刑するという過ちを犯したため、内乱が発生。その隙に乗じて晴元達は阿波から出兵して、京都を押さえることに成功しました。
ところがここで元長と不仲となり、元長が阿波に帰国してしまいます。その隙を突かれたのか、高国は浦上氏の援軍を得て、再び畿内へ進出。京都を奪い返します。
窮地に陥った晴元は、元長と和解を図り、戦いを任せます。元長の統率によって戦いを五分に戻しましたが、まだまだ決着は付きませんでした。
決定打となったのは、赤松晴政の寝返りでした。高国の援軍に来たはずの晴政が裏切ったことで、高国は軍を失い自刃しました。
これで一件落着したかに思われましたが、今度は晴元の側で内部抗争が起きます。将軍足利義晴との和解を求めた晴元に対して、元長等が反発。晴元は邪魔者になった元長を、一向宗と通じて殺させました。
元長の子供達、長慶達は阿波守護家の庇護を受けて育つこととなり、晴元は自らが増長させた一向宗の後始末に追われることとなったのです。
[ad#ken1]
三好長慶の台頭
長慶にとって晴元は父の敵ではありましたが、ひとまずは晴元の家臣となりました。しかし長慶と晴元はたびたび争い、決定打は与えないまでも、長慶の影響力は増大し政治的優位を確立していきました。
晴元の当面の敵は、高国の養子であった細川氏綱でした。長慶の功もあり、晴元は戦いを優勢に進めていたのですが、池田信正を切腹させたことに不満を持った長慶達が氏綱方に寝返ったことで形勢は逆転。近江へと落ち延びていくことになりました。
晴元は細川家の当主として、管領として将軍を補佐し行動を共にしましたが、それはつまり細川家と将軍家が共に三好軍と戦い、敗れて近江に逃れるということでした。将軍が義晴の代でも、義輝に移ってからでも、晴元は将軍家と共に戦いましたが、とうとう勝つことはできませんでした。
しかし長慶の方もとどめを刺そうとはせず、自分に有利な条件での和睦をまとめては帰京を許し、また争っては近江へ追いやるということを続けました。
戦国時代のならいとして、晴元は長慶に人質を出しています。嫡男の昭元です。しかし晴元は、子供が人質に取られていても何のその、いつもの調子で長慶と争いを続けました。それでも昭元が豊臣政権時代まで生きながらえているのは、長慶の甘さの表れのようです。見せしめとして処刑されてもおかしくない時代でした。
それどころか、長慶自らが昭元を元服させるほどだったそうです。
1561年、長慶と和睦をしたものの、その後に幽閉されました。これを不服とした六角・畠山氏が兵を挙げ、三好氏に対して痛烈な打撃を与えました。この戦いで長慶の弟であり、柱石であった実休が死亡したことで、三好氏の凋落が始まったと見られます。
1563年、幽閉されたまま普門寺にて亡くなりました。昭元が後継者となりましたが、以後細川氏が管領職を得ることはありませんでした。











