三好元長

三好長慶の父であり、後世にも大きな影響を与えた人物です。野心の大きさ故か、若くして命を落としました。

誕生から家督相続まで

1501年の生まれです。父は三好長秀とされていますが、長秀の弟とも言われています。長秀が早世してしまったため、元長を長秀の養子として後継者に据えたとのことです。
その長秀の父が三好之長で、将軍家や細川家の権力闘争にも強い影響を与えた人物でした。三好氏は阿波に勢力をおいていましたが、之長の代に幕府の権力を掌握するほどの飛躍を遂げました。
しかし当時の畿内は内部闘争のまっただ中で、足利義澄と足利義稙の争いや、細川澄元と細川高国の争いなどが起きていました。之長は澄元派として高国と戦い続けましたが敗死しました。その後を継いだのが元長です。

雌伏と挙兵

之長と共に、その一族も抹殺されていました。三好氏の家督は元長が継ぎましたが、戦力的な劣勢は明かで、その段階では戦いを挑むことはできませんでした。
三好氏の元々の主君筋は阿波細川氏でした。その阿波細川氏から本家筋に当たる管領細川氏に養子が出されました。それが細川澄元です。之長が討たれた後、程なくして澄元も病没しています。このとき、澄元の後継者晴元は七歳でした。
晴元も元長も高国を仇として憎んではいましたが、戦う力はありません。この時期は、阿波細川氏の庇護の下で育てられたようです。元長にすればもともとの主君ですし、晴元にすれば実家とも言えます。
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二人が力を蓄えていた時期、1526年、之長の死から六年後になるこの年に、高国が失策を犯しました。讒言を信じて家臣を討ってしまったのです。そのために内乱が起こり、丹波の波多野氏が高国に背くことになりました。
すぐに討伐軍は送られましたが敗北。波多野氏の周辺勢力も高国の横暴を心得ていたようで、波多野氏に対して同情的だったようです。差し向けた部隊からも離反者が出る有様で、高国の統治の大きなひずみが露呈しました。
その隙を突き、元長と晴元が動き始めました。時の将軍足利義晴の弟義維を擁立し、高国に戦いを挑みました。桂川原の戦いで勝利した元長達は、高国や義晴を近江においやり、幕府の実権を掌握したのです。

高国打倒

しかし元長は一度前線を退くことになります。晴元の重臣と不仲になり、晴元からも疑いの目で見られるようになりました。元長は阿波に帰国してしまい、今度はその隙を突いて高国が兵を挙げたのです。
浦上村宗の協力を得た高国は緒戦を快勝し、晴元側からも離反者が出るようになりました。追い込まれた晴元は元長と和解して、軍権を預け、元長が総大将として防御に当たることになりました。
元長の軍勢一万五千と、阿波細川氏からの援軍八千を加えた晴元軍は窮地を脱しましたが、それでも一進一退の攻防が続きました。堺に身を置いていた義維を守るために兵を割かねばならず、自由に動かせる戦力はそれほど多くなかったようです。

元長の指揮のおかげで五分の戦いを続けていたあるとき、高国達の援軍として登場した赤松晴政の裏切りによって、長い戦いに決着が付きました。村宗は戦死、高国も程なくして捕らえられ、処刑されたのです。

功労者の死

高国がいなくなったことで、細川氏の家督と管領の役職を得ることは目前でした。もはや対立候補は高国の残党を率いる晴国くらいしか残されていません。そこで、晴元は突然方針を転換、義晴と和睦する道を選んだのです。

義維を将軍に据えることを望んだ元長達は、晴元に疎んじられます。晴元の配下として比類なき功績を挙げていただけに、敵となったときの危険性が高すぎたのです。
木沢長政を包囲している最中、数万を率いる一向宗に襲撃されました。一向宗と法華宗は対立しており、元長は法華宗に与していました。
元長は一向宗からは憎まれていたのですが、それを利用した晴元の謀略でした。名将として名を馳せた元長は、こうして三十二年の生涯を終えました。

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