細川持隆

ほとんど名の知られていない、歴史マニアでもないと誰だか分からないような人物です。しかし、地味ながらも、後世に与えた影響は無視できないものがあります。
出自
1497年、細川之持の子として生まれました。この細川氏は管領を務める京の細川氏の分家で、阿波守護を務めていました。之持の父、成之の代から本家との関係も深く、京の趨勢、将軍職や管領職をも左右する存在でした。
成之の代、阿波の国人であった三好之長を重用し、その才覚のおかげもあって京への影響力を強めました。しかしそのせいで本家との関係は悪化し、戦火を交えています。最終的には成之の孫、澄元を管領家の養子に入れることで和解し、以後管領家とは協力を続けました。
しかし、管領であった細川政元の暗殺によって後継者争いが勃発し、澄元と、細川高国の間で争いが起きることとなります。船岡山合戦に敗れた澄元達は阿波に帰り、雌伏の時代を送ることとなります。
この直後に成之、之持が共に没したため、阿波守護家は持隆の代となります。
[ad#ken1]
阿波で力を蓄えた人々
管領家の家督争いに負けた澄元が阿波に帰国したと言うことは、おそらくは実家である阿波守護家に戻ったのでしょう。それを保護したのが甥の持隆ということになります。
阿波で力を蓄えた澄元と之長は七年ほどを過ごし、高国の力が弱まるのを待ちました。高国と将軍義稙の関係が悪化し、軍事力を担っていた大内義興の帰国などの条件が整ったところで兵を挙げました。
澄元達の攻撃は成功し、京都に入洛するなどの成果を上げました。澄元が管領細川家の当主となることを認められるなど、政治的にも大きな意義を得ましたが、その直後大規模な援軍を率いた高国に攻められ、之長は捕らえられて処刑、澄元は阿波へと逃げ帰りました。
それから一月ほどで澄元は病死し、そのあとを晴元が継いだのです。
ここで、新たな細川・三好連合軍が誕生しました。之長の遺志を継いだ三好元長が、細川晴元を擁立して旗揚げの機会をうかがったのです。そしてそれは、数年後に訪れます。高国の失策によって発生した内乱につけ込み、晴元達が権力を手中にしました。このときの戦いには持隆も参戦し、戦果を上げています。
しかしこの後すぐに、晴元と元長が不仲となります。晴元が元長を攻めさせると晴元から離れ、阿波へと引き上げてしまいました。そして、若くして倒れた元長の遺児達、長慶や実休等兄弟を保護したのも持隆だったのです。
この後の歴史をご存じの方ならばおわかりの通り、この長慶達が晴元の力を凌駕し、将軍家をも傀儡とするほどの力を付けていくことになります。
このようにして、之長、澄元から始まり、元長、晴元、そして長慶達までが持隆の保護下で成長し、力を蓄え、京の勢力図を塗り替えていったのです。
晩年
あまり活動の記録が残されていませんが、赤松氏の要請で尼子晴久と戦ったことが記されています。また同時期には、河野氏とも戦っていたようです。
長慶は細川晴元に仕えることになりましたが、弟の実休は持隆の家臣として四国に留まりました。実休は本拠を阿波に置きながらも兄を助け、各地を転戦しながら功を上げ続けました。優秀な兄弟達に支えられ、長慶は管領細川家をも支配下に収めていったのです。
そうした移り変わりの中で、持隆はさすがに見ていられなかったのかも知れません。凋落していく本家を見捨てることができず、晴元を助けようとしたからとも、強大化する実休の権力を恐れて暗殺を企てたからとも言われておりますが、持隆は実休によって討たれました。
当の実休も気に病んでいたようで、その後出家し、辞世の歌にも詠んでいます。
長慶には甘いところがあったとも言われていますし、実休にも繊細な面が見えます。そういった精神形成には、やはりおっとりとしたところの窺える持隆の性格も影響したのかも知れません。











