一色義道

京都にほど近い丹後国の守護でありながら、戦国時代にはあまり関与していないように思われることの多い人物でしょうか。事実、あまり多くの事跡は知られておらず、いつの間にか滅んでいるように感じられます。
誕生から家督相続まで
義道の生年は不明です。父は一色義幸。
戦国時代ではあまり名の知られていない一色氏ですが、家柄としては名門中の名門でした。室町幕府において管領を務めた家柄、細川氏、土岐氏、畠山氏の三管領家に次ぐ四職と呼ばれる一族です。
四職は一色氏、赤松氏、京極氏、山名氏のことであり、東は近江、北は丹後、西は備前・美作が四職の支配下にありました。このようにして、帝の住まう京都の周辺を治める一員だったのが一色氏です。
しかし、戦国時代にはありふれた話ですが、一時期の隆盛は過ぎ去り、この頃の一色氏にはもはや昔日の面影は残されていませんでした。
そんな時代、1558年に父の隠居によって家督を譲られたのが義道です。
織田信長との関係
京都の周辺勢力は、織田信長と無関係ではいられない時代でした。信長が足利義昭を奉じて上洛をすると、天下統一に向けた戦いを始めます。多くの勢力は信長に従う道を、少なくとも一度は選びましたが、義道もその一人でした。
おそらくは織田氏と朝倉氏の最初の衝突の頃から信長に従っており、義昭からは丹後国を正式に与えられています。事実上の支配者はもともと一色氏でしたが、名目の上でもそれが保証されたことになりました。
しかし、信長が比叡山を攻撃すると、落ち延びてきた僧を匿ったために信長と対立することとなり、明智光秀と細川藤孝の攻撃を受けることとなります。
これが1579年のことです。すでに丹波では波多野氏、赤井氏が討たれ、黒田・別所・荒木氏などの謀反も鎮圧された頃です。この頃まで丹後は手も付けられず、戦いの記録がないあたりが、一色氏の名が知られていない原因かも知れません。
織田氏の軍勢が攻め寄せると国人衆の多くは織田方に着き、義道の居城もすぐに陥落してしまいました。隣国の山名氏へと亡命を図りましたが裏切りにあって、自害しました。
一色氏のその後
こうして一色氏は、通り道のように踏みつぶされたかというと、意外とそうではありませんでした。
義道の後を継いだのは子の義定でした。この義定は武勇に優れた将であったらしく、寡兵でありながらよく戦い抜きました。
義道は瞬く間に国を奪われましたが、義定は残党を集めて抵抗勢力を組織し、藤孝の手を焼かせ、侵攻を食い止めたのです。とどめを刺しきれなかった藤孝は、娘を一色氏に嫁がせ、政略によって支配下に入れました。
これで一色氏は再び織田氏の臣となり、丹後の半国を保持することができました。
この後は細川氏に従い、共に活動しているようです。甲州征伐では信長の本隊に細川忠興の名がありますが、そのときも従軍しています。
本能寺の変と滅亡
本能寺の変が起きると、義定は光秀に味方しました。細川氏が中立を守ったのに対し、一色氏は積極的に光秀に協力したのです。光秀は戦いに敗れ、豊臣秀吉の時代が訪れます。
当然ながら一色氏の立場は危うく、秀吉からは危険人物と見なされました。そのため、謀反の疑いにより細川氏によって謀殺されました。
一色氏の家督は叔父の義清が継承し、最後の戦いを始めます。弓木城で兵を挙げた義清は、すぐに細川軍の攻撃を受けました。かつては細川氏の攻撃を耐えきった一色氏でしたが、状況が違います。もはや豊臣氏による天下統一に向かい始めている時期に、丹後半国の一色氏では戦いきることはできません。
大将自ら敵本陣に斬り込み、討ち死にしました。こうして、四職では最も早く嫡流が途絶えたのです。











