足利義晴

足利義輝の父ですが、あまり名を知られていません。境遇的には義輝とそれほど違いはないはずなのですが、人生が複雑すぎるのかも知れません。
誕生から将軍になるまで
1511年、足利義澄の子として誕生しました。
将軍職を巡っては、義澄と足利義稙の間で争いがあり、京を中心として 戦っていました。西国の大内義興に擁立された義稙によって義澄は追われ、六角氏の保護を受けている頃に義晴が誕生しました。そして、それから半年ほどの後、義澄は死去。足利将軍家は義稙で落ち着くこととなります。
義晴の身柄は赤松氏に預けられましたが、赤松氏の当主義村は守護代の浦上村宗との抗争に、義晴を巻き込みました。足利家の権威を借りることで戦いを有利にしようとしたのです。が、それでも義村は敗北。義晴の身柄は、今度は浦上氏の下に置かれるようになりました。
その頃、義稙は細川高国と不仲となり、出奔してしまいました。かつては高国に助けられて将軍として返り咲いた義稙でしたが、後ろ盾である細川氏と争うのでは将軍として留まることができなかったのです。
しかし将軍が不在のままでは困ります。そこで呼び出されたのが義晴でした。まだ十一歳でしたが、高国に担がれる形で第十二代将軍に任じられたのです。
傀儡としての将軍家
このようないきさつからも分かることですが、将軍家には特別な力はありませんでした。管領細川氏の傀儡として、細川氏の統治の名目を助けるために利用されるのが足利家でしかなかったのです。
義稙は将軍復権のために戦いを起こしたようですが、結局高国を破ることができないまま1523年に亡くなりました。
その細川氏も一枚岩とはとうてい言えず、数年後には一門同士で争い始めます。
細川高国と、細川晴元の争いです。後の三好氏の歴史を知る方ならば、晴元が細川氏の当主となっていることをご存じだと思いますが、そこにも長く複雑な過程がありました。
将軍を奉じる高国と戦うため、晴元は義晴の弟義維を擁立しました。この戦いは晴元が優勢に進め、義晴と高国は近江へと落ち延びていきます。義晴と義維の間で争いは続きましたが、義晴派の事実上の総大将であった高国が討たれました。
浦上村宗と共に晴元派と合戦に及んだ高国でしたが、赤松晴政の裏切りにより奇襲をかけられ、命を落としたのです。これにより義晴の立場も危うくなるところですが、細川氏ではまたも内紛が起きます。
高国打倒で功のあった三好元長の台頭を恐れた晴元が、一向宗を動かして元長を抹殺したのです。細川氏も内部で分裂を抱え、それ以上の決定打を与えることはできませんでした。義晴は幕府を近江に移し、実権を保持しました。細川氏の大物であった高国も亡い今、二十歳そこそこの義晴が将軍職は守り切ったのです。
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繰り返される和解と対立
義晴と晴元は和解しました。六角氏の支援もあったようで、義晴は将軍として京へ戻ることができました。しかしこの二人は何度も争うこととなります。毎年のように戦っては義晴が敗れ、近江に落ち延び、和解しては京へ戻るということが繰り返されます。これは子の義輝の時代でも見られることです。
予定調和のように繰り返される儀式の姿が変わったのは1546年のことでした。高国の養子となっていた細川氏綱等と協力して晴元と戦うことにしました。この戦いは緒戦は優勢に進みましたが、元長の後継者三好長慶の軍勢が参戦すると、やはり義晴は近江へ逃げることになります。このとき、義輝を元服させ将軍職も譲りました。以後は大御所として義輝を後見することとなりますが、長くは続きませんでした。
四年後には病没してしまうのです。亡くなったのも近江でした。前年に晴元と長慶が対立しており、義晴は晴元を支持したため、義輝、晴元と共に落ち延びた先での病死でした。最後まで細川氏の事情に翻弄された将軍だったことになります。











