幕末の時代、井伊直弼の前に幕政を担った老中でした。出自によらず優れた人材を登用し、勝海舟など後に名を挙げる幕臣が、正弘によって抜擢されています。
出自
1819年の生まれです。
阿部氏は徳川家康に仕えていました。関ヶ原の合戦を経て大名となり、大坂の陣、島原の乱などで功を上げ、徳川幕府において重要な地位を与えられました。
阿部氏は老中を輩出する家柄で、父正精もまた老中でした。正弘は五男で兄がいましたので、家督の継承順位は高いものではありませんでした。実際、正精が没したときに家督を継いだのは三男の正寧でした。ところが病気がちだった正寧は、当主となって十年後に弟の正弘に家督を譲って隠居します。
こうして、正弘が備後福山藩の当主となりました。
安政の改革
正弘の業績として最も有名なものは、安政の改革でしょう。これは外交や軍事、諸藩や朝廷との関係にまで及び、幕末全体を通して影響を与えました。
しかし安政の改革が始まるのは1853年。正弘が老中となったのは1843年ですので、就任から十年後のこととなります。それ以前は何をしていたのでしょうか。
そもそも安政の改革は有名なペリー来航に端を発します。ペリーから開国を求められたことで重い腰を上げて、どうにかしないといけないということで始まるのが安政の改革です。しかし実際は、それ以前から何かをしなければならない状態は続いていました。
その発端を求めるとすれば1846年のビドル来航でしょうか。ペリーに先んじること七年、1846年に浦賀にはアメリカ人が訪れていました。このときはまだアメリカは日本の開国を求めておらず、交易が可能かどうかの確認をしただけでした。
しかし国際情勢的に、そろそろ鎖国を続けるのは得策ではないという助言は、オランダからももたらされていたのです。その現実を突きつけられたのが、1853年のペリー来航でした。
その間正弘も何もしなかったわけではありませんでしたが、何もできませんでした。異国船に対する攻撃は先に水野忠邦によって廃止されていましたが、それを復活できないかと模索したりもしました。が、もちろんそんなことを実現する余力は、時の幕府にはありませんでした。
そうして有効な対策のないままペリーを迎えた正弘は、一年間の猶予を与えられます。そして大急ぎで断行したのが安政の改革というわけです。
安政の改革によって幕府は軍制の改革を行いました。講武所が陸軍を更新し、海軍伝習所が海軍を近代化させました。講武所は後に日本陸軍となり、海軍伝習所が日本海軍、このときに建てた洋学所が東京大学となっていきます。
さらにはまた正弘は広く意見と人を求めました。朝廷や諸藩にも意見を募り、国家の一大事を解決する名案を求めたのです。そのためには出自を問わず優れた人材を抜擢しました。
早世
ペリーが再び来航した1854年、幕府は日米和親条約を締結しました。これによって鎖国体制は終わり、伊豆と函館の港が開港されました。
これを不服としたのが徳川斉昭等、攘夷派の人々でした。正弘は攘夷派と開国派の衝突を緩和するべく、老中首座を堀田正睦に譲りました。実権は正弘が掌握していたと見られていますが、しかし二年後に急死してしまいます。
三十九歳という若さで、改革の途中で正弘が亡くなってしまったことで、幕末という時代は混乱を深めていきます。
寛容で、優れた人材を登用するという功績を残した正弘でしたが、個々の実務能力には疑義が呈されています。結局のところ正弘の行った、朝廷や諸藩にも意見を求めるというやり方は、幕府の権威を失墜させ、実行能力のない勢力の介入を招いただけではないかとも言われています。
そうしなければならないほど幕府に体力がなかったも考えられていますので一概には言えませんが、いずれにせよ正弘がもっと長く活躍していれば、その混乱の度合いは小さかったのではないかと思われます。
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