あまり有名でもなく、大勢力の大名でもありませんでしたが、織田信長の前に立ちふさがり手を焼かせました。丹波の赤鬼の名で知られています。
誕生から後見人になるまで
1529年、赤井時家の子として誕生しました。赤井氏の領地は丹波国にあり、この地の守護は細川氏、守護代は内藤氏でした。しかし、細川氏は内紛で乱れ、三好氏の台頭を招くこととなります。丹波の実権も誰が掌握するかが定まらず、丹波の有力者であった赤井氏や波多野氏、細川氏、内藤氏、三好氏などが入り乱れて戦いました。
この頃大きな戦果を挙げ、赤井氏は丹波における第一の勢力となりました。丹波の大名としては波多野氏の方が有名かも知れませんが、この時期では赤井氏の方が領土を拡大していました。
時家が没するのは1581年ですので、いつ頃かに嫡男家清に家督が譲られたと思われます。1555年に赤井氏は一族を挙げての大決戦に勝ちましたが、そのときに家清、直正共に大けがを負いました。この傷が元で家清が亡くなったため、赤井氏の家督は家清の子忠家が継ぎました。
直正は、幼い忠家の後見人として、実質的な赤井氏の当主として統治することになります。
直正は荻野氏の養子に入って家督を継いでいますので、荻野直正が正しい名前となりますが、事実上の赤井氏の当主であったためか、赤井直正の名で呼ばれるのが通例です。
織田信長との戦い
信長が足利義昭を奉じて上洛する頃、丹波の赤井氏と波多野氏は、織田氏に服する道を選びました。しかし、この関係は長く続かず、信長と義昭が反目するに及んで、赤井氏は信長と対立することとなります。
丹波における反織田の旗頭が直正で、直正の居城が黒井城であったため、織田軍の司令官明智光秀の目標も黒井城に定められました。波多野氏はこのとき光秀の指揮下にあり、黒井城の包囲網に参加していました。
ところが包囲も完了して、いざ総攻撃となった頃、突如として波多野氏が光秀の軍に襲いかかりました。赤井氏にも追いかけられ、光秀は丹波から逃げ帰ることになりました。
こうして丹波の二大勢力が信長の前に立ちふさがり、さらには別所長治や荒木村重なども信長から離反して籠城するに及び、信長の西進が阻まれました。
様々な戦いを転戦した光秀は、前回の戦いから一年半ほどの時を置いて、再び丹波攻略に乗り出しました。このときは、一気に黒井城を目指すのではなく、赤井氏や波多野氏の居城を少しずつ追い詰めるように、支城を落としていきました。
悪いことに、丹波で勇猛を誇った直正が病死してしまいます。1578年でした。名目上の当主忠家では統率力が不足していたのか、直正の弟が補佐したものの、丹波の諸勢力は光秀に降るようになりました。
1579年になると八上城が陥落し、波多野氏が滅亡します。同年、いよいよ黒井城も攻められ、城に火を放って忠家達は落ち延びていきました。
黒井城が陥落したことで丹波の反織田勢力は駆逐され、信長の作戦も一段落を迎えました。
この後、忠家は遠江に逃れたと言われ、後に豊臣秀吉に仕えています。秀吉の弟秀長と仲が悪くなったりしたのち、関ヶ原の合戦では東軍に属して戦い、二千石の旗本として徳川氏に仕えたと言います。
また、直正の子直義は後に藤堂高虎に仕えて千石を与えられています。
盟友とも言える波多野氏の三兄弟が磔に処されたのと比べると、だいぶよい待遇を得ているように思えます。戦場で寝返った波多野氏と、堂々と敵対関係を宣言した赤井氏との差でしょうか。
光秀が丹波からはじき出されたあと、信長は赤井氏に対しては「罪を許し、本領を安堵するから織田の家臣に戻れ」と書状を送っています。
武田氏の『甲陽軍鑑』でも、名高き武士として徳川家康、長宗我部元親などと並び称されているだけのことはあります。