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    Categories: 武将紹介 山名氏

山名祐豊

名門山名氏は衰退の一途をたどっていましたが、祐豊の代では支配権を取り戻し、戦国大名と呼ぶに相応しい力を保持しました。しかし、家臣の統制を取りきれず、織田信長に滅ぼされることとなります。

誕生から家督相続まで

1511年、山名致豊の子として誕生しました。
山名氏と言えば古くは十一カ国の守護として君臨した大領主でした。足利尊氏に従って功があり、山名氏の一族六名が守護に任じられ、その領域が合計で十一カ国にも達したのです。その時期の日本は全六十六カ国だったとされ、山名氏は六分一殿と呼ばれていました。
それほどの大勢力を誇った山名氏ではありましたが、次第に勢力に陰りが見えてきます。特に衰退の契機となったのが応仁の乱で、赤松氏が旧領を回復し、西では尼子氏、大内氏などの勢力が伸長し、山名氏の領土も切り取られるようになりました。
致豊の代では守護としての力にも乏しく、実権を掌握できる状態ではありませんでした。守護代の垣屋氏を始め、山名氏の臣下に当たる有力者達に背かれた致豊は、弟の誠豊に家督を譲ることとなりました。
その誠豊が祐豊を養子に迎えておいたことで、誠豊が没した後、祐豊が当主となりました。

但馬の掌握

この時期の山名氏は祐豊が家督を継いだ但馬守護家と、山名誠道の因幡守護家に分かれていました。祐豊は、誠道と戦い、これを討つことで弟を因幡の守護代に任じて山名氏の統制を図りました。
しかしこの弟豊定は程なくして亡くなってしまい、祐豊の長男に交代することになるのですが、それもまたすぐに没したことで、豊定の子豊数が守護代になります。
父致豊の代で力を振るい、山名氏に背き、山名氏の家督についてまで影響力を及ぼしていた山名氏の家臣団ですが、祐豊はこれらの有力者達を武力を以て征し、山名氏の統率力を回復させました。
この中には後に離反する太田垣氏も含まれています。
このようにして、祐豊は山名氏一族をまとめると共に、但馬因幡の諸勢力もまとめ上げ、山名氏最後の最盛期を築き上げることに成功しました。

織田信長との関係

信長が上洛を始めるまで、山名氏は西側勢力に対して積極的に干渉していました。毛利氏と結んで尼子氏と戦うこともあれば、尼子氏を支援して毛利氏を牽制することもありました。西の大国による侵入を阻むため、積極的な戦略をとっていたのです。
しかし信長が台頭し、木下秀吉によって山名氏も攻撃を受けると、祐豊は信長に臣従することにしました。これでひとまずは本領を安堵され、織田方として毛利軍と戦うようになります。
丹波の赤井氏に侵攻を受けた際には織田氏の援軍を得て、逆に丹波に侵入したりもしました。丹波周辺の織田方勢力としては山名氏は重要な位置にいたと思われますが、突如として旗色が変わってしまいます。
祐豊自身には信長を裏切るつもりはなかったようですが、家臣の太田垣氏が毛利氏に寝返ってしまいました。家臣が勝手にやったことですでは済まないご時世、信長からすれば山名氏が裏切ったと同義でした。
そのため、再び秀吉の侵攻を受け、降伏することとなります。祐豊は、降伏の後、まもなく死亡したようです。病死とも、自害したとも言われています。

祐豊には三男がありましたが、長男棟豊はすでに亡くなっていました。次男義親は信濃へ逃れたといい、三男尭熙は落城の時すでに城を出ていました。祐豊とは意見が合わなかったという尭熙は、後に秀吉に取り立てられ、親衛隊にも取り立てられ二千石を与えられ、御伽衆にも名を連ねるなどの厚遇を得ています。
しかし尭熙とその子は大坂の陣にあって豊臣方に付いており、子は戦死、尭熙は蟄居したといいます。子孫は途絶えてはいませんでしたが、徳川の世にあって豊臣方の一族としては仕官の口も見つからなかったため、旧臣の養子に入り、他家を相続する形で江戸幕府の旗本として残りました。

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