裏表のない誠実な人柄と豊臣秀吉に忠義を尽くし続けた美しい生き様の加藤清正。
熊本の人たちは、親しみをこめて清正公さん(せいしょこさん)と呼びます。
そんな清正公が広めたものを紹介します。
「熊本城」
まず有名なのが日本三名城の一つとして名高い熊本城です。
戦国時代屈指の築城名人といわれた清正公。
難攻不落の城といわれる熊本城の代名詞といえば「清正流石垣」。
緩い勾配から始まり、だんだん弧を描きながら、上に行くに従って勾配がきつくなる独特の扇の勾配で「武者返し」の異名をとります。
また、縄張りも迷路のように何重にも折れ曲がった複雑な設計です。敵を肉体的にも精神的にも疲弊させることができます。
難攻不落の城といわれる熊本城の堅牢さが、築城から270年後の西南戦争で証明されました。
熊本城で新政府軍と西郷隆盛率いる薩摩軍と戦火を交え、熊本城の新政府軍はわずか約4000人。
それに対し薩摩軍は約14000人。
新政府軍は3日間にわたって薩摩軍の一斉攻撃に耐え、城内侵入も許しませんでした。
最後まで熊本城を攻略できなかった薩摩軍は全壊。
西郷隆盛は「おいどんは官軍に負けたのではない。清正公に負けたのだ」と言い放ったといいます。
2016年(平成28年)4月14日21時26分に熊本地震が発生。
気象庁震度階級では最も大きい震度7を観測する地震でしたが、清正公が建てた熊本城の「宇土櫓」は倒壊しておらず、清正公と400年以上前の築城技術を称賛する声が数多く上がっています。
「隈本」を「熊本」へと改名
清正公は新しいお城に「隈」の字が畏(おそれる、かしこまる)の字を含むため、武将の居城の名に相応しくないとして、勇猛な「熊」の字を変えたと言われています。
「鼻ぐり井手」
清正公は最前線での武勇だけではなく、多数の治水工事や干拓事業を行い、熊本の基礎を築いています。
「鼻ぐり井手」は、馬場楠にある特別な構造の用水路です。
水流が穴の壁にぶつかった際に渦を巻き上げ、溜まった土砂を排出させる仕組みです。
土砂と一緒にはき出されることにより、川底に土砂を溜めない仕組みが生れました。
この穴の形が牛の鼻輪(はなわ)を通す穴(もしくは鼻輪本体)に似ているところが「鼻ぐり」名称の由来とされています。
この構造により川の氾濫や、用水路のつまりなどの対策をしていたようです。
水を通す仕掛けで水流が土砂を巻き上げる工夫が素晴らしく、自然を良く知るものでないと考えつかないような対策でした。
それ以外にも、川の氾濫に悩まされた白川や坪井川の流れを変更して熊本城の堀として活用。
熊本平野や八代平野で干拓や堤防の整備を行い、沿岸地帯での農作物の栽培を可能にしています。
これらの事業はいずれも農閑期に行われ、きちんと給金が支払われていました。
このために領民たちにとっては負担になるものではなく、この善政によって清正は高い支持を得ていくことになります。
「セロリ」
朝鮮出兵の際に清正公が持ちかえったとされ、「清正人参」とよばれていたそうです。
名前の通りニンジンやミツバと同じセリ科の野菜です。香りが強く独特なため、敬遠されがちでした。
日本人がセロリを受け入れるようになったのは戦後、昭和30年代に入ってからだそうです。
「馬肉」
熊本が馬肉王国になったその理由は、清正公が朝鮮出兵にて食糧難に陥った際に、馬肉を食したのが通説とされています。
当時は馬肉を美味しく食べていたのではなく、高熱を伴う病の治療薬として食べていたそうです。
生きていく上で欠かせないものとして馬肉を食する文化が根付いていったとも言われています。
馬肉の生産量全国1位は熊本です。生産した馬肉を県内においても相当量を消費しています。
「朝鮮飴」
朝鮮飴は、もち米や水あめ・砂糖などを原料としたもので、園田屋の開祖、園田武衛門により作られました。
当初は長生飴と呼ばれ、清正公が朝鮮出兵のときに、長生飴を日本から持ち込んだことで有名になりました。
清正公が非常食として長生飴を常備したところ、籠城中の兵糧として役に立ったことから、「朝鮮飴」と呼ばれるようになりました。
江戸時代を通じて、清正公が亡き後も熊本の名産品として幕府に献上される特別なものとなりました。
「朝鮮飴」は、老舗の園田屋をはじめ、熊本の銘菓としていまでも親しまれています。
特に有名なブランドはとんがり兜がトレードマークの「清正製菓」です。
「伊勢音頭」
「伊勢音頭」に「伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ 尾張名古屋は城でもつ」という有名な一節があります。
この歌詞のもとになったのが、「石は吊って持つ 吊りたる石は 尾張名古屋の城に着く」という名古屋城築城時に唄われた石曳き唄(木遣り唄)といわれています。
1609年徳川家康は九男義直の尾張藩の居城として、名古屋に城を築くことを決定しました。
家康は諸大名に命令して名古屋城築城を行わせます。
石垣は諸大名の分担によって築かれましたが、中でも最も高度な技術を要した天守台石垣は、清正公が自ら進んで引き受けます。
この工事の石曳きのときに唄われたのが木曳き唄(木遣り唄)。
清正公は自ら音頭をとって木遣り唄を歌わせ、皆と一緒に綱を取ったと伝えらています。
この石引きには5、6千人の老若男女が華美な衣装に身を飾り、唄に合わせて綱を引いたそうです。
石引きの参加者は食い放題、飲み放題でした。
食い放題飲み放題の石引きというので、われもわれもと綱にとり付きいて、手拍子合わせて浮かれながら、お祭りのようになったそうです。
後には見物人も商人も飛び込んで綱にとり付き、熱田から名古屋まで巨石をあっと言う間に運んで、無事工事を完了させました。
その木遣り唄は、伊勢神宮の御神木を曳くときに唄われるようになり、伊勢音頭として全国に広まったといわれています。
せいしょこさんのさしたこつ(清正公のなさったこと)
今でも清正公が行った善政は全て「せいしょこさんのさしたこつ(清正公のなさったこと)」と地元に語り継がれています。
清正公は独自の発想で人心をつかむだけではなく、人を使うことに関しても一流でした。「せいしょこさん」のあしあとは今でも熊本の至る所に残っています。
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