赤松氏の家臣にあたり、黒田官兵衛の主君として語られることの多い人物です。政職自身にはあまり有名な逸話がないのが残念です。
出自
1529年に、小寺則職の子として誕生しました。小寺氏は赤松氏の分家に当たり、家老として仕えていました。
この時期の小寺氏を語るときに常に登場するのが黒田孝高、有名な黒田官兵衛ですが、孝高の父は黒田職隆といいました。職隆の父の代から小寺氏に仕えたのですが、職隆に功があり、政職の養女を嫁がせて小寺氏の一門衆としました。
孝高の才も高く評価し、一族の娘を与えています。
このように、小寺氏は黒田氏を重用し、そのことが後の英傑を誕生させることとなりました。
毛利と織田の狭間で
足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長は、畿内を中心として勢力の拡張を始めました。
小寺氏の主家である赤松氏は、義祐と政秀に分かれて争っている状態であり、名目上の宗家は義祐にありました。
そのため小寺氏も義祐に仕える形となったわけですが、政秀は義昭の支援を得ました。政秀の娘が義昭の次女として仕えていたため、政秀には義昭が、そして信長が味方に付いたのです。
信長の指示の下、摂津に勢力を持っていた池田勝正等が派遣され、戦力の上では小寺氏は不利に置かれていました。
政職は居城に兵を集めて籠城しましたが、孝高は三百ほどの戦力で野戦を挑みました。敵は赤松軍三千ほどでした。
十倍の戦力に対して夜襲を仕掛けた孝高は、動員戦力の九割を失うほどの被害を出しながらも、これを撃破。一時的に、この地方での優位を確立しました。
しかし、それも長くは続かず、織田氏の本格的な攻勢と、毛利氏の拡張に挟まれる形となります。一度戦い、織田氏の強さを感じた孝高は、政職に対して信長への臣従を勧めました。
政職はそれに応じ、織田方として毛利と戦うこととなります。
小寺氏が毛利の侵攻を退けたのが1577年の英賀合戦でした。
といっても、これもやはり孝高の統率の賜物であり、政職は特に何もしていないとも言えます。強いていえば、孝高を信頼し、邪魔はしなかったというところでしょうか。
小早川隆景に派遣された毛利の水軍兵五千が、播磨に上陸しました。時間をおけば、陣地を築かれ準備も整ってしまうと見た孝高は、やはり十分の一の戦力である五百の手勢で奇襲をかけました。上陸したばかりなら、まだ戦闘態勢が整っていないと見たのです。
また、地元住民に旗を掲げさせ、援軍が到着したと見せかけました。
状況の不利を悟った毛利水軍は、撤退してきました。
織田から毛利へ
というように、政職は織田と戦い、織田に味方しと、孝高の献策するとおりの道を選んできたわけですが、それが変わるときが来ます。
姫路城を羽柴秀吉に献上した孝高は、小寺の家臣としてではなく、秀吉の参謀として働くこととなりました。どのような心境の変化があったのか、政職は毛利に寝返りました。
きっかけは荒木村重の謀反であったようです。村重の謀反に政職も乗りました。それを食い止めるべく、孝高が村重の説得に向かったものの、牢に入れられてしまいます。
この謀反で連携した村重、政職、別所長治でしたが持ちこたえたのは二年間でした。居城を捨てた政職は、毛利氏を頼って落ち延びていきました。
亡くなったのはその数年後のことです。
政職の後継者は氏職といいました。政職が没すると、孝高の働きかけにより、氏職は播磨に戻ることができました。後に氏職は孝高に招かれて、孝高の子黒田長政に仕えることとなりました。
長政が徳川家康に手を取って感謝されたとき、「お前の左手は何をしていたのだ」という逸話のせいか、孝高は裏切り癖のある人物のように思われがちですが、小寺宗家に対しては忠義を通したように思えます。