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    Categories: 武将紹介 赤松氏

赤松晴政

名門赤松氏の第十一代当主になります。三カ国の守護でありましたが、時代の流れに飲み込まれ、次々と国を失っていきました。

誕生から家督相続まで

1495年、もしくは1513年に生まれたと考えられています。父は赤松義村。
赤松氏と言えば名門も名門で、後醍醐天皇の時代、足利尊氏の時代に功があって播磨、備前、美作の三カ国の守護に任じられていました。
しかしあるとき、赤松氏の当主満祐が時の将軍足利義教を暗殺するという暴挙に及びました。これによって赤松氏は討伐され、一度は滅んでいます。それを再興し、再び強国を作り上げたのが、先々代の赤松政則でした。
赤松氏の中で特に力を持っていた家臣が、浦上氏でした。浦上氏は長く赤松氏に仕えた守護代であり、政則の活躍にも貢献しています。
しかしながらその力は強くなりすぎ、義村の時代には赤松氏と浦上氏は争うようになりました。戦いは浦上氏が優勢に進め、義村は隠居を余儀なくされ、1520年に晴政が家督を継承しました。
晴政の晴の字は足利義晴から拝領したもので、この名を名乗るのは二十年ほど後のこととなります。それ以前の名は、政村、政祐などでした。

浦上氏との戦い

晴政の生涯は、浦上氏との権力闘争に費やされました。
もちろん、晴政の敵は浦上氏だけではなく、共通の外敵の脅威にさらされたときなどは手を組むこともありましたが、全体的に見て生涯戦い続けたと言えるでしょう。
隠居した後の義村が、復権を目指して兵を挙げたものの、敗れて暗殺されています。晴政にしてみれば浦上氏の当主であった村宗は父の敵ということになりますが、この敵討ちは果たします。
1531年に、大物崩れという戦いが起きました。
これは、管領であった細川高国を取り巻く政治的な闘争でした。高国は細川晴元と敵対しており、戦いに敗れて落ち延びていました。再起を目指す高国に手をさしのべたのが、村宗でした。村宗は播磨を掌握すると、高国を奉じて畿内へと進軍しました。
晴元がそれを迎え撃ちましたが、浦上軍は優勢を続けていました。それを押しとどめたのが晴元の家臣であった三好元長でした。
元長によって快進撃は食い止められ戦況は膠着状態へ。
それを打破すべく応援を頼まれたのが、晴政でした。晴政の力を借りなければならないほど、晴政くらいしか頼めそうな関係の相手がいなかったことが、村宗の限界だったのかも知れません。
晴政は着陣前に、寝返りの約束を与えていました。最初から、背後から襲う気で出向いたのです。そして着陣から二日後、浦上軍を背中から強襲しました。正面からも三好の軍勢が押し寄せます。こうして絵に描いたような挟み撃ちを受けて浦上軍は壊滅。村宗も戦死し、高国も自害へと追い込まれました。
これによって立場は逆転。今度は晴政が、浦上氏の新当主政宗にとって父の敵となったのです。

尼子・毛利の戦いに巻き込まれて

赤松氏と浦上氏の戦いは続きました。しかし、お互いに決定打を与えられるほどには、力に差がありませんでした。
この状況が終わりに近づいたのは、尼子、毛利といった近隣の大国の干渉を受けたときです。
最初は赤松氏と浦上氏が共同して尼子氏の侵攻を食い止めていたのですが、止めきれずに晴政と政宗は共に堺へ脱出しています。
尼子氏の侵攻は、尼子氏が吉田郡山城の攻撃に失敗して大打撃を受けたことで、中断されることとなりました。この頃は政宗が赤松家の宿老として協力的だったようです。
しかし1551年に尼子氏が再び迫ってくると、政宗は尼子氏と結びました。政宗の弟、宗景は毛利氏と結びました。これで晴政・政宗・宗景の三つ巴の戦いに突入したわけです。
政宗は晴政の嫡男、義祐を擁立し、晴政に隠居を迫りました。戦いに敗れた晴政はやむなく家督を譲りましたが、自身は婿の政秀の下に身を寄せました。
晴政が家督を退いても戦いは終わらず、この後も浦上氏との戦いが続きましたが、その渦中1565年に没しました。

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