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    Categories: 武将紹介 織田家

織田信秀

織田信長の父です。歴史上最も有名な人物の父ではありますが、あまり事跡は知られていません。知勇兼備の名将であったようです。

誕生から家督相続まで

1511年頃、織田信定の下で誕生しました。
織田信長が尾張から始めて天下を目指しましたので、織田氏が尾張の支配者だったと考える人も多いようですが、ここにもいきさつがあります。
信秀の時代は、尾張守護は斯波義達でした。斯波氏は応仁の乱の混乱の中、遠江の守護に任じられたことで、今川氏と事を構えることとなりました。
それによって今川義忠が遠江遠征中に討たれ、斯波氏は今川氏の仇敵となったのです。その結果今川氏親によって義達は捕らわれ、勢力を縮小することとなりました。
その際、尾張守護代であった織田氏は遠征には反対しており、守護代と守護の間でも戦闘が発生。このときは、守護代であった織田達定が敗死しました。
こうして、尾張の一大勢力であった守護と守護代が共に没落した結果、守護代の庶流であった信秀の織田弾正忠家が台頭することとなったのです。
十代の中頃、信秀が家督を継ぎました。

軍事も政略も

信秀の活躍は軍事・内政・外交のいずれにも見られ、信秀の代での下準備がなければ、信長といえども天下人として名を残すことは難しかったでしょう。
信秀が戦った相手は強者揃いであり、斉藤道三、今川義元、松平清康などです。斉藤道三とは幾度もぶつかり合い、一度は城を奪っても、いずれは取り返されるような戦いをしていました。清康には城を奪われたものの、清康が突然暗殺されるという事件のおかげで逆に三河に侵攻し、西側を領地としています。
今川義元との戦いでは、第一次小豆坂の戦いでは勝利したものの、二度目の戦いでは太原雪斎に敗れて三河から追い出されました。
いずれも名将を相手取った戦いであり、それを支えて尾張での勢力を保持したことが次世代に勇躍に繋がりました。
しかも、信秀は名目上は守護や守護代に仕える身分です。すでに力は衰えたとはいえ、主君は主君。権力争いは絶えず、時に守護代に攻撃を受け、戦っては和睦すると言うことがありました。
そのような権力的不自由の中でなんとかやりくりしていた信秀は、いくぶん古いタイプの人物だったのかも知れません。
主家の権力を簒奪はするし、戦いもするが、滅ぼすまでは忍びないという生き方をした人物に、三好長慶などもいます。

内政においては朝廷とも交流を密にし、備後守、三河守などに任じられています。上洛し、将軍であった足利義輝にも拝謁するなど、中央との関係を保ちました。
山科言継と共に蹴鞠会を楽しんだりもしています。
商業政策を重視し、経済力を高める事を目指したようで、これが信長の楽市楽座の思想に繋がっていったと見られます。
また、謀略にも長けていたと見られ、今川氏豊の那古野城は、だまし討ちによって奪い取っています。連歌を好んだ氏豊に、連歌の友として近づき、信頼されるようになりました。そこで、城の中から手勢を招き入れ、突如として城を襲ったのです。

晩年

北には道三、東には義元、そして国内では守護代家と、三方に敵を抱えていた信秀は、さすがに徐々に押し返されていきました。
一度は斉藤氏の本城、稲葉山城まで押し寄せては見たものの、結局は敗北。手強い斉藤氏との戦いに終止符を打つため、道三と婚姻を結ぶことにしました。
こうして信長が濃姫と結ばれることになったのです。
これで北の敵は押さえることができました。あとは東と国内だったわけですが、この対処は信長の代に持ち越されます。
まだ四十代だった信秀でしたが、病で倒れ、亡くなりました。早すぎるぞと言って、信長が葬儀で焼香を投げつける話も、分からないではありません。
若い頃からうつけ者と評判だった信長ですが、父からの評価は高かったようで、信秀はずっと後継者を信長と決めていたようです。

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