織田信行

織田信長の弟の一人で、織田氏の家督を継ぐに相応しいと見なされていた人物です。結局は謀反人として討たれ、信長が歴史上の英雄として名を残すことになりました。
出自
確かな生年は不明で、1536年頃と考えられています。父織田信秀の三男として生まれました。このあたりも断定はされておらず、四男とする資料もあるようです。
一般に信行の名で知られていますが、自身が残した文書にある名は信勝、信成、達成となっており、信行と自ら署名した形跡はありません。
信秀の長男には信広がいましたが、世継ぎには次男の信長が指名されていました。幼少からうつけ者と呼ばれていた信長は、信秀健在の時にも騒動を起こし、周囲からは眉をひそめられていました。
信広よりも信長が優先されたのは、信長の母が継室であり、信広の母が側室であったからです。信行の母は信長と同じく土田御前でしたので、家督の継承権にも近くにいました。土田御前も信長よりも信行をかわいがったと言い、このことが謀反に繋がったかも知れません。
1551年に信秀が没すると、信長が家督を継ぎました。信秀の葬儀で信長が焼香を投げつけるという暴挙に出たと言われており、兄のうつけ度合いが高まるにつれて、周囲からの期待は信行に集まりました。
最初の謀反
後に織田軍団の一角を担うようになる柴田勝家ですが、この時期は信行の家老として働いていました。勝家ほどの者の目から見ても、信長では織田家の未来は暗く映ったのでしょう。
信長の重臣として活躍することになる、林秀貞なども信行を支持しており、この時期の信行支持者は大きな勢力になっていました。
家督を継いで以来の信長は尾張での勢力拡張を成功させ、信秀にも負けない資質を見せてはいましたが、それでも信行派は信長を当主として受け入れられず、謀反に及びました。
信行方は千七百名の戦力を集めましたが、信長の手勢はわずか七百であったと言います。規模としてはさほど大きくないこの稲生の合戦で、織田氏の当主の座が定まりました。
数でも勝り、勇将である勝家の率いる部隊の働きもあり、当初は信行軍が優勢に進めていました。勝家の隊は信長本陣まで迫り、遮る敵は四十名ばかりというところまで行ったようです。ところが、森可成等の奮戦によって食い止められ、兵士達は信長に怒鳴られて退散したと伝えられています。
ここから流れが変わり、信長自ら得物を取っての攻勢により、信行方は四百五十名という損害を出して敗走しました。
信行は籠城して抵抗の構えを見せましたが、母の取りなしによって助命され、降伏しました。
この際、勝家、秀貞なども罪を問われず、信長に仕えることとなりました。
謀反再び
翌年、一年も経たずに謀反を画策します。しかし、このときはかつての協力者はいませんでした。
信行は勝家を重く用いなかったようで、勝家の方も信行に対する忠義を捨て去っていました。信行の野心を信長に伝え、信行の謀殺に荷担しました。
信長は病を装って信行を城に呼び出し、その場で暗殺したのです。
一度は許した信長でしたが、二度目はありませんでした。この時期、信長の兄信広も謀反を起こし、信長の手勢と交戦しています。信広も許され、以後は信長のために働きました。
信長にも甘いところがあると見たのかどうなのか。
しかし確かに、信長にも甘いところがあるのか、信行の子には手出しをしませんでした。このときに助命されたのが、後の津田信澄です。
最後は明智光秀に荷担したというので討たれることになりますが、信長存命中は一門衆として待遇され、馬揃えにも十騎を率いて並んでいます。
一度目で懲りてあとは忠勤に励んでいれば、もう少し歴史上の人物としての扱いもよかったのではないかと思われます。
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