織田信忠

織田信長の嫡子であり、資質も十分という逸材でした。もし存命であれば、歴史は大きく違っていたかも知れません。
誕生から元服まで
1555年頃の生まれです。信長ほどの有名人の嫡子としては珍しく、生年が特定されていません。信雄と信孝のどちらが先に生まれたかも論争のあるところであり、信長の子供に対する扱いの雑さを表しているとも言えるのかも知れません。
幼名は奇妙丸。生まれたときの顔立ちが奇妙だったからだそうです。あとで名前が変えられる時代とは言え、現代でいうキラキラネームを超える奇抜な名前です。
元服した時期についても諸説あり、1572年から翌73年の頃とされています。織田氏と武田氏は同盟関係にあり、信忠は武田信玄の娘と婚約が結ばれていましたが、信玄の徳川家康領侵攻によって同盟が破綻、婚約も破棄されました。
後継者の資質
一説によれば、信忠は暗愚だったとも言われています。その論拠は後世の歴史学者の書に置かれ、そこでは松平信康切腹の理由が、信忠の無能さにあったと語られています。
信長の同盟者であった家康の息子の信康の方が、信忠よりも優れていたため、将来を心配した信長が信康を切腹に追い込んだというのです。そこまでするのだから、よほど信忠は手をかけて守ってやらねばならない程度の人物だったのだろう、と言うことになります。
しかし、近年の研究ではこの考え方は下火となり、信忠は立派に信長の後継者としての資質を示していたとみられるようになってきています。
石山や伊勢などの本願寺勢力との戦いにも参加し、武田軍とも交えています。特に1582年の甲州征伐では、信忠が総大将となり一月あまりの間に武田勝頼を自刃に追い込み、武田氏を滅亡させました。
遠征開始時の時点で武田氏は疲弊していました。1575年の長篠合戦で重臣を失い、武田家中では離反者が増えました。見せしめとして長引かせた高天神城を見殺しにしたこともあり、勝頼の下で戦う意志を持つ勢力は少なくなっていたこともあります。
その意味で、早期終結の功績は信忠一人の功績とは言えないことも、信忠の資質を疑問視することに繋がりそうです。
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本能寺の変
三月に武田を滅ぼしたばかりの織田軍でしたが、六月には中国地方への援軍として本能寺にありました。さしあたって近隣での抵抗勢力は毛利氏と長宗我部氏、上杉氏くらいになっており、長宗我部氏に対しては三男の信孝を総大将として遠征軍が準備され、上杉氏に対しては柴田勝家が挑んでいました。
そこで明智光秀による、本能寺の変が起きたのです。
光秀が信長のいる本能寺を襲ったという知らせを受けた信忠は救援に向かいましたが、すでに信長が自害したとの報を受け、二条御所に籠もって明智勢を迎え撃ちました。
この際、京都周辺が包囲されていたわけではなく、脱出路は残されていたと言います。逃げようと思えば逃げられた状況なのですが、信忠はまさか光秀ほどの者が退路を断たずにいるとは思わなかったようで、逃げるところを討たれるよりは戦って死ぬ方を選んだとも言われています。
信忠の命で脱出した者もいることから、本当に信忠が逃げ道がないと考えていたのかは分かりません。
いくつかの書物によれば、信忠自身剣を振るって戦ったとされています。そして十数名の敵兵を切り伏せた後、腹を切り、身柄を隠させました。そのため、信忠の首級も見つからなかったそうです。
享年二十六。
すでに織田家の家督を継承した身であり、文句なしの織田家の当主。信忠が落ち延びたならば、その子三法師が担ぎ出される道理もなく、羽柴、柴田などの宿老達も信忠を差し置くことはできず、織田氏の統率が乱れることはなかったでしょう。
たった一つの決断が、歴史を大きく変えることになりました。
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