姉小路頼綱

戦国時代の大きな流れからは離れた大名ですが、飛騨一国を手中に収めるなど、非凡な才能を見せました。最後は豊臣秀吉によって表舞台から退場させられます。

誕生から家督相続まで

誕生は1540年。父は三木良頼。この頃はまだ三木姓を名乗っていました。
飛騨という国は守護職は京極氏が務め、姉小路氏が国司でありましたが、三木氏が勢力を拡張しており、実質的な権力を掌握しつつありました。
長らく飛騨の国内で争いを続けていた諸勢力ですが、時代は進み、近隣で大きな勢力が台頭し始めます。武田信玄です。
信玄の影響力は飛騨にもおよび、武田氏と結んだ江馬氏と三木氏の間で戦いが起こっています。
幕府・朝廷との関係改善を進めた良頼は、1558年に飛騨国司に任じられ、飛騨における権力確保の足がかりを築きました。さらには官位を贈られると共に、姉小路氏の継承を許されました。
飛騨では第一の勢力であった三木氏ですが、美濃を掌握した織田信長は上洛を果たしています。東では甲斐の虎、越後では上杉謙信というように、比較にならない巨大勢力に囲まれていたため、織田氏にも上杉氏にも従属の姿勢を見せて保身を計りました。
そうしているうちに、1570年代の初めに良頼が没したことで、頼綱が当主となりました。

本能寺以前

頼綱の正室は斉藤道三の娘でした。信長の正室であった帰蝶の姉に当たる女性を妻に迎えていたのです。そのため頼綱は信長の親戚筋として友好関係を保ちました。
北陸方面を任された柴田勝家にも協力し、この頃までには上杉氏との関係は解消していたようです。
飛騨国内にも親上杉派の勢力が多く、頼綱はそれらの討伐に明け暮れました。

本能寺以後

明智光秀によって信長が討たれると、周辺の大国は飛騨にかまっている余裕もなくなったのか、頼綱は飛騨統一に乗り出します。
ずいぶんと規模に違いがありますが、姉小路氏と江馬氏で行われた八日町の戦いは、飛騨の関ヶ原と呼ばれたりもするようです。姉小路軍千人に対し、江馬軍三百人という小規模な合戦ではありましたが、この戦いで勝利した頼綱は瞬く間に対立勢力を討ち果たし、飛騨統一を成し遂げます。
しかし、この過程では弟や息子を手にかけました。
弟は知謀に長け、養父を毒殺して権力を簒奪するなど、腹黒さを発揮していました。その野心を恐れた頼綱によって、暗殺されたのです。また、その弟と結託していたとみられた嫡男もまた、謀反の疑いをかけて殺害しました。

飛騨統一を成し遂げ一段落したことで、頼綱は家督を秀綱に譲り、隠居したようです。しかし、ゆっくりと余生を送ることはかないませんでした。

晩年

本能寺の変後、姉小路氏は勝家に味方しましたが、その勝家が秀吉に敗れ滅びます。当然のように飛騨も攻撃対象となり、金森長近の侵攻を受けました。
姉小路氏の本拠は松倉城で、これは非常に険しい山に築かれた要塞のため、難攻不落と言われていましたが、家臣の裏切りによって陥落。姉小路氏の血筋の多くは命を落としましたが、頼綱は信長の親族ということで助命され、京都に住居を与えられて幽閉されました。
名目上は幽閉でありましたが、公家として遇されたようです。たまたま迎えた妻が斉藤氏の娘であったことで生きながらえたことになります。
没したのは1587年。
頼綱の血筋は四男直綱を通して生き延びました。直綱の息子が美濃の八幡藩の遠藤氏の養子となり、家督を継承したのです。遠藤氏は幕末を生き延び、現代でも続いていますが、頼綱の血筋が残されたかは不明です。
五代藩主が七歳で謀殺されたため、無嗣断絶となりかけました。かろうじて養子をもらって家名は存続したものの、血のつながりはありませんでした。

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