北畠具教

伊勢を治める国司であり織田信長に対して頑強に抵抗した人物ではありますが、ひっそりと消えていく勢力の一つというのが、一般的な認識ではないでしょうか。

誕生から家督相続まで

1528年、北畠晴具の子として生まれました。北畠氏は天皇の血筋の者が北畠という地に移り住んだため、以後北畠氏を名乗りました。
足利尊氏と後醍醐天皇との戦いでは南朝方、後醍醐天皇に与して幾度も戦っています。伊勢の守護職ではありませんでしたが、北畠氏が最も勢力を広げ、実質的な支配者となっていました。
朝廷との関係も良好だったのか、父は参議であり、具教も若くして中納言に任じられています。
具教が当主となったのは1553年、晴具が隠居した歳になります。

信長台頭以前の勢力拡張期

初期の具教の治世では、いくつもの戦いを経て、領土を拡大しています。
伊勢の中部に大きな領土を持つ北畠氏でしたが、南北の勢力と戦っています。ただ戦い、相手を滅ぼすだけでなく、自分の息子を後継者に据える条件での和睦など、外交的従属化も駆使しています。
伊勢国の東南部で隣接する、ごく小さな領域である志摩国にも手を伸ばし、九鬼氏を降しています。この戦いで落ち延びた九鬼嘉隆が後に織田水軍を勝利に導きます。
さらに西の大和国にも影響力を伸ばしていたのか、三好氏の力を背景としていた秋山氏を攻めています。

信長との戦い

美濃を押さえ上洛を果たした信長は、勢力の拡大を急ぎました。北で浅井・朝倉氏と戦うよりも前に、南で伊勢を掌握するための兵を動かしています。
国力の違いは圧倒的であり、伊勢の半国を治めるだけの北畠氏と、尾張美濃から近江を押さえている織田氏とでは勝利は絶望的でした。
弟の木造具政が寝返り織田氏に臣従するなど、領土は瞬く間に縮小していきました。しかし大河内城に籠城した北畠軍は精強で、二ヶ月近くを耐え抜き、講和にこぎ着けています。
和議の条件は信長の次男であった信雄を養子とし、後継者に据えることでした。様々な場面で見られる、お家乗っ取りのための下準備です。
こうしてみると北畠氏が単純に敗北したようにも見られますが、実際のところは織田氏としても手をこまねいたための手打ちであったとも見られています。
東西南北を川と谷に囲まれるという、恐ろしいまでの天然の要害であった大河内城に籠もった北畠軍は、織田軍の攻勢を跳ね返しています。七万の織田軍と八千の北畠軍ではありましたが、とどめを刺しきれずにいたのです。
そこで信長の方から、足利義昭を通じて和議が提案されたとのことです。
実際、その後数年にわたって実権は具教の下にあり、信雄に家督が譲られたのは1575年になってからでした。

暗殺

戦いに敗れて従属下に入った北畠氏でしたが、おとなしく信長に忠誠を誓うつもりは毛頭ありませんでした。
反信長勢力に支援を行ったり、西進中の武田信玄には使者を送り協力を約束しています。信玄と通じていることが明るみとなり、信長は具教等北畠一族の排除を決めます。
1576年。北畠氏の旧臣の手勢が、具教が隠棲していた三瀬御所を包囲し、内通者の手引きで侵入しました。具教は突然の襲撃をかわしたものの、得物が細工されていたために戦うことすらできずに討たれたと言います。
具教は剣術の達人でもあり、塚原卜伝から新当流の奥義を伝えられています。上泉信綱からも学び、柳生宗厳や宝蔵院胤栄を信綱に紹介したのが具教です。
そんな剣豪ですから、死に際しては十九人を切り伏せ、百名あまりを負傷させたという伝承も残されていたりします。足利義輝の死に際とも通じます。
この襲撃で十数名の家臣が討たれ、その後に続く殺戮によって信雄の養父となっていた具房以外の北畠一族は、ほとんどが抹殺されていきました。

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