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    Categories: 武将紹介 織田家

織田信雄

織田信長の息子の一人ではありますが、あまり活躍もなく、後継者争いにも敗れ、ひっそりと歴史の表舞台から去って行ったという印象があります。しかしながら、なかなかに個性的な逸話を残していたりするのです。

誕生から、北畠氏の家督相続まで

1558年に生まれた信雄は、信長の次男とみられています。三男に信孝がおりますが、実は信孝の方が出生が早かったのではないかとも言われており、このあたりは明らかになっていません。
1569年に織田氏と北畠氏の間で和議が結ばれると、信雄は北畠氏に養子に入り、後継者に据えられました。数年して元服すると、北畠具豊を名乗っています。
信雄はいくつもの名を持っており、最初が具豊。次に信意、そして信勝、信雄。最後に法名として常真と号しました。ここでは信雄で統一します。
織田氏に敗北し、臣従することになったものの、信長に従う気のなかった北畠氏は、信雄が元服したあともすぐには実権を明け渡さず、さらに三年を経て、ようやく信雄が当主となりました。

北畠氏の抹殺

信雄が当主となると、北畠の力を織田氏のために使うことは可能になりましたが、具教達の旧勢力は織田氏に対して敵対的でした。武田信玄に接近したり、反織田勢力に支援したりと、織田氏にとって内部に敵を抱えた形でした。
そこで信雄は家臣に命じ、具教等北畠氏の旧勢力を暗殺させました。係累もまとめて殺し尽くし、一部の親族だけが逃げ延びました。
これでやっと伊勢一国の統治を確立できたのです。

勘当危機

信雄は手勢を率いて、いくつかの戦いに参陣。織田氏の武将らしく、転戦しています。しかし、あるとき大きな失態を演じてしまいます。
1579年、信雄は独断で一万近くの兵を動かし、伊賀へと攻め込みました。北畠具教の時代に、伊賀方面に丸山城が築かれました。信雄は伊賀制圧の橋頭堡として、この城の改修を命じたのですが、伊賀衆の攻撃で引き上げざるを得ませんでした。
そこで今度は軍勢を率いて三方より伊賀に侵攻したのですが、伝承としても伝わる忍者の戦いに翻弄され、敗走しました。信長から与えられた重臣を失うなど、大きな損害を出しています。
これに激怒した信長から、書状が送られてきました。少し現代風にわかりやすく表現すると、こんな感じになります。
「信雄よ、お前は京へ遠征するのがめんどくさいからと、近場で済ませようとして伊賀へ出兵したようだが、そのような考えでいるから天罰が当たったのだ。上方へ兵を出せば親孝行にもなり、兄の助けにもなり、自分の功績にもなるではないか。人材を無駄に失ったことは言語道断。このようなことを続けるなら親子の縁を切るから、覚悟しておけ」

この敗北で信雄の評価は地に落ち、もはや人々から高く評価されることはありませんでした。それを端的に表した言葉が「三介殿のなさる事よ」。三介は信雄のことです。「あいつのすることだから」というのは、どうにもならないあきらめの言葉です。

本能寺以後

信長亡き後、後継者に名乗りを上げたのが、信雄と信孝でした。しかし、結局は織田家重臣達に擁立された、三法師が当主となります。信雄と信孝は、その後見人。
しかし豊臣秀吉は自分たちで決めたことも守ろうとはせず、今度は信雄を当主に擁立して柴田勝家と戦いを始めました。

勝家を破った秀吉にとって、もはや信雄という神輿は必要なく、関係が悪化。今度は信雄は徳川家康と結んで秀吉と戦うこととなります。野戦では豊臣軍を破った家康でしたが、結局は兵を引きます。
家康の大義名分を保証していた信雄が、秀吉との単独講和に応じてしまったからです。

後に家康が関東に転封になった際、空き地となる駿河・遠江へ配置換えされそうになりますが、それを拒絶。改易となってしまいます。家康の取りなしで幾ばくかの領土を与えられてはいますが、関ヶ原の合戦では大阪城で傍観に徹し、なんとなく西軍ぽいので改易されるという、強い意志の感じられない人生を送りました。
大坂の陣の際には豊臣家に仕えていたようなのですが、戦いの直前に徳川方に寝返り、諜報工作に功があったのか、大名に取り立てられました。
最後に内政官としての資質を発揮したのか、庭園を造り、産業を発展させ、乱世が終わったあとで統治者らしいことをしました。
没年は1630年。
信長の三人の息子の中で、唯一江戸時代に大名として残ったのが信雄の血筋でした。
この血は世代を経て今も残り、今上天皇まで受け継がれています。

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