蘆名盛氏

蘆名氏の隆盛を築いた名将ではありましたが、同時に、蘆名氏の衰亡を招いた人物でもあります。

誕生から家督相続まで

1521年に生まれました。父は蘆名盛舜。会津で勢力を張っていた蘆名氏ですが、会津全域を完全に掌握していたわけではありませんでした。有力家門である松本氏はたびたび蘆名氏に対して反旗を翻し、そのたびに討伐されています。
松本氏やそれに与する勢力をうち降すだけの力はあった蘆名氏ですが、いっこうにあきらめる気配もなく、ずいぶんと手を焼かされました。
1541年に盛舜が隠居し、盛氏が当主となりました。

天文の乱

当主となって早々、盛氏には大きな問題が振ってきます。奥羽の覇者となった伊達稙宗とその子晴宗での争い、天文の乱です。
蘆名氏は盛舜の代から伊達氏とは同盟関係にあり、盛氏の室は稙宗の姫でした。そういう関係から言っても自然と、盛氏は稙宗に味方し、晴宗と戦うことになりました。
天文の乱の初期は稙宗が優勢を維持していましたが、ある時を境に勢力バランスが崩れ、逆転してしまいました。そのきっかけとなったのが、盛氏でした。
蘆名氏の領土近くに田村氏がいたのですが、両者の間で抗争が勃発してしまいます。田村氏が晴宗方であれば単純な話だったのですが、田村氏もまた稙宗に味方していたのです。
ここで盛氏は稙宗と手を切り、晴宗に味方することにしました。その結果晴宗が勢力を盛り返し、蘆名氏に続いて稙宗を見限る者達も現れたことで、天文の乱は晴宗の勝利となりました。

蘆名氏の戦略

盛氏の当面の目標は田村氏でした。しかし、田村氏は常陸の佐竹氏から支援を受け抵抗を続けました。
すると盛氏の方も、佐竹氏の敵である北条氏と結び、圧力をかけたのです。
このように、外敵との駆け引きに追われる中、やはり松本氏らが謀反を起こします。そのたびに鎮圧しますが、これではやはり国力の減退は避けられません。
上杉謙信が没し、お家騒動が発したときなども、蘆名氏は北条氏を支援して介入しています。佐竹義重という強敵と対峙していた盛氏としては、北条氏との連携は必須事項であり、佐竹を押さえ込むための戦略の一環でした。

滅びの道へ

盛氏は側室を持たない人物でした。晴宗も同様でしたが、あちらは多数の子宝に恵まれています。ところが盛氏には男女一人ずつしか生まれていないのです。このことが、蘆名氏の命運を決しました。
1561年に盛氏は隠居し、嫡男盛興を当主に据えました。もちろん、実権は未だ盛氏の下にあります。この体制の下いくつかの戦いをこなし、順調にいくかに見えましたが、1574年に盛興が急死してしまいます。しかも、まだ世継ぎが生まれていません。
盛氏にもほかの男子がいないため仕方なく、二階堂氏から人質としてとっていた盛隆を養子として迎え、蘆名氏を継がせることになりました。
しかし、盛隆には血統上の正当性は全くありません。といっても、この時代にはそういうことはたびたびあるものですから、それだけで国が滅ぶと言うことはないのですが、やはり家臣の不満なども募り、蘆名氏衰亡の兆しはこの頃から見えていました。

1580年になると、盛氏が没します。享年六十でした。
その後を任された盛隆ですが、上杉氏との抗争で疲弊し、徐々に劣勢に立たされていくことになります。上杉氏の新当主景勝は腹心の直江兼続を用いて蘆名氏の切り崩しをはかり、ただでさえ忠誠心に不安のある蘆名家中では、さらなる反乱を招くことになりました。
依然として続く松本氏の反乱などにも悩まされながらも、黒川城を維持。会津に築いた一大勢力は簡単には崩されなかったのです。
しかし1584年、家臣に暗殺されたことで、蘆名氏の衰亡が決定的となります。世継ぎは一月前に生まれたばかりの幼児。伊達氏の介入を受け、佐竹氏の従属下に入りと、家中のごたごたが続いているうちに統制を失い、本城を守ることもできなくなりました。そうして会津は伊達政宗によって奪取されたのです。

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