上杉顕定

長尾為景によって討たれた関東管領です。顕定の時代は関東の動乱期であり、この時期の抗争が尾を引き、上杉氏が衰退し、後北条氏が台頭したと考えられます。

誕生から関東管領就任まで

1454年に生まれました。父は上杉房定。房定は越後守護ではありましたが、関東管領家の山内上杉氏ではなく上条上杉氏の生まれでした。
房定の時代には、鎌倉公方の足利成氏と関東管領の争いが起きており、この戦いは三十年に及ぶ大規模なものとなっています。そのさなか、1466年に関東管領が没したとき、顕定が山内上杉氏に養子に入り、関東管領家を相続することとなりました。
亡くなった関東管領には子がおらず、房定の従兄弟にあたったため、山内上杉氏の重臣の要請で房定の子を後継者にしてほしいということになったのです。
しかし、最初房定はこれを拒絶しています。将軍であった足利義政からの命令が届いたことで、房定は次男の顕定を養子に出しました。
房定は、山内上杉氏内部での権力闘争を心配し、養子に出すことを渋っていたとみられています。

長享の乱

長きにわたった古河公方との争いは、顕定が関東管領になった後も続きました。
この終わりなき抗争を終結へ向かわせたのは、一つの反乱でした。山内上杉氏で家宰を務めていた長尾景信が没すると、家宰職を与えられなかった長尾景春が謀反を起こしました。
この大規模な反乱に悩まされた関東管領家は、古河公方との和平を模索しました。交渉は成立し、関東管領、古河公方、幕府、堀越公方といった各権力の間で一段落がつき、享徳の乱に終止符が打たれます。
ところが、これはほんの一休みに過ぎませんでした。
景春の乱は扇谷上杉氏の家臣、太田道灌の活躍で鎮圧されましたが、これによって力関係に変化が起きます。
それまでは分家の一つでしかなかった扇谷上杉氏が、山内上杉氏と戦えるほどの力を身につけ、扇谷上杉氏内部でも、太田氏の名望が高まり強力な勢力になっていたのです。
発端は、太田道灌の暗殺でした。道灌の台頭を恐れた扇谷上杉氏は、名将を暗殺してしまいます。そこから両上杉氏の権力闘争が激化し、戦いは関東の全域に及びましたが、特に後世に強い影響を与えたのが相模・伊豆での戦いでした。
孤立していた堀越公方が、伊勢宗瑞(後の北条早雲)によって攻め滅ぼされました。これを外敵の侵入と捉えなかった扇谷上杉氏は、かえって伊勢氏や、今川氏に対して援軍を要請し協力を求めたのです。
最終的には扇谷上杉氏の降伏で終わる長享の乱ですが、この過程で後北条氏が伊豆を制圧し、相模にも手を伸ばし、後の大勢力となる第一歩を踏み出していたのです。

長尾能景と長尾為景

顕定には兄一人と弟一人がいました。兄は長享の乱の最中に突然の自害を果たしてしまったため、越後守護職は弟の房能が継いでいました。
越後守護代は長尾能景です。能景は長享の乱の際、最後の一突き、扇谷上杉氏に降伏を決心させる働きをしました。
その能景が、越中での戦いで戦死してしまいます。原因は、神保慶宗の裏切りだったと言われています。が、房能が救援をしなかったとも言われています。
何にせよ、能景の後を継いだ長尾為景は上条上杉氏の上杉定実を擁立して謀反を起こし、房能を討ち取りました。
弟の仇討ちのため、顕定は兵を率いて越後に向かい、ひとまずは優勢を勝ち取りました。為景と定実を国外に追いやり、越後の統治権を掌握したのです。
ところが越後の国人衆はそもそもからして自立心が強く、なかなか言うことを聞かせられませんでした。越後国内の統治に手を焼いているうちに、為景が勢力を盛り返し、各所での戦闘が再開されました。
各地から援軍を集めた為景の軍勢に追い込まれ、長森原の戦いで敗れて自害したのが1510年のことです。
家督は古河公方からの養子であった顕実が継ぎましたが、後にもう一人の養子であった憲房との間でお家騒動が発します。そして、度重なる争乱の末に没落した上杉氏とは対照的に、後北条氏が勢力を広げていくのです。

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