上杉朝定

関東管領家の分家でありながら、本家と対等の力を身につけた扇谷上杉氏でしたが、朝定の代で滅亡してしまいます。
誕生から家督相続まで
1525年の生まれです。父は上杉朝興。
この時期の扇谷上杉氏はまさに動乱のさなかであり、一族である山内上杉氏との抗争を繰り広げながら、家中でも家臣に背かれるという始末でした。
そもそもは太田道灌の働きによって力をつけた扇谷上杉氏が、太田道灌の勢力を恐れて粛清したところから始まります。家臣の忠誠を失い、山内上杉氏には敗北し、援軍として利用するはずだった北条早雲には相模を侵略される有様。
朝興は朝良の養子として家督を相続しましたが、朝良には晩年に生まれた実子がいました。朝興はその子の後見人として一時的に当主となったはずでしたが、自分の息子を後継者にするために、その子を殺してしまいました。
そうして、朝定に当主の座が回ってきたのは、十三歳の頃でした。
追い詰められる扇谷上杉氏
朝良の代から家臣の離反は相次いでおり、朝興の代には江戸城を失陥しています。この頃の江戸城は、まだ後世に出てくるような大規模なものではありませんでしたが、道灌が築城したものであり、交通の要衝でもあった、重要な城でした。
朝興はこれを山内上杉氏や甲斐の武田氏などと協力して奪還しようとしましたが、失敗に終わっています。
江戸城を手中にした後北条氏の、次なる狙いは川越城でした。朝興が没し、若年の朝定が継承すると、春の農作業が終わった頃にはもう動き出し、北条氏綱の軍勢によって川越城も奪われてしまいました。
扇谷上杉氏にはかつての力は残されておらず、山内上杉氏や古河公方なども、関東で勢力を拡大し続ける後北条氏に対して警戒心を強めました。
そこで、やっとこれらの旧権力が手を組むこととなり、1546年に起きる河越夜戦につながっていくのです。
河越夜戦
河越夜戦で語られる主人公といえば、なんと言っても北条氏康と北条綱成になります。この二人の名将によって、八万の軍勢がたった一万の軍勢に敗れたという物語が、人々を惹きつけるのです。その結果朝定は戦死。世継ぎもいなかったためにお家は断絶。扇谷上杉氏は滅亡となります。
しかし、河越夜戦の史的信憑性としては、異説も提示されており、必ずしも明らかではないようです。ここでは少し、朝定の名誉に貢献するかもしれない、その話をしてみましょう。
伝わっているところの河越夜戦では、降伏の意思があると告げられた包囲軍には油断が生まれ、そこにつけ込んだ北条軍が朝定らを討ち、混乱に陥った包囲軍を潰走させ、大勝利したとされています。
しかしながら、そもそもそういった大規模な戦闘が起きたのかどうかが疑わしいとも言われています。というのも、このような決死の戦いで大勝利を収めたにしては、北条氏の残した資料として、感状が見当たらないのはおかしいというわけです。
大逆転の働きをしたのなら、相応の恩賞があって当然のところ、そういった書状が見つからないのは不自然です。また、朝定が死亡したという記録はあっても、その状況を記した文書がないというのも、特殊な状況で死んだのだから記述しないはずがない、とも疑われています。
もしかすると朝定は陣中で病没し、そのために連合軍が解散して、撤退していったのではないか。いわゆる大逆転の夜戦は起きなかったのではないか、という見方も示されています。
しかしいずれにせよ朝定は、若くして亡くなりました。世継ぎはいませんでしたが、血の近い男子が残っていたようで、後に太田資正に擁立されてお家を再興しました。ただしすぐに北条氏に攻められ軍門に降り、歴史の表舞台に返り咲くことはありませんでした。











