上杉憲政

関東管領職と上杉性を長尾景虎に譲った人物、というくらいしか知られていませんが、その前半生は戦いにまみれていました。

誕生から家督相続まで

1523年、上杉憲房の子として誕生。二年後、父が亡くなったとき、憲政はまだ幼少のため義兄の憲寛が家督を継ぎ、関東管領となりました。憲寛は憲房の養子で、実父は古河公方でした。
1529年、憲政はまだまだ幼い時期でしたが、上杉氏でお家騒動が起きます。上杉家中の争いの末、憲政が擁立され、憲寛は戦いに敗れ小弓公方の領地に逃れました。
この戦いに勝利したことで憲政が山内上杉氏の家督を継承し、関東管領となったのです。

関東管領としての戦い

当時の関東地方で積極的な軍事行動を起こしていた有力大名としては、北条氏綱、武田信虎がいます。信虎が信濃で近隣領土に侵攻した際、憲政は救援の兵を送ってそれを抑止しました。
氏綱の活動は特に活発で、手当たり次第という風に、山内上杉氏とも、扇谷上杉氏とも事を構え、各所で両上杉氏を退けていたのです。
関東地方の勢力関係は混沌としていて、両上杉家と古河公方は三つ巴の権力闘争を繰り広げていました。有力な旧勢力同士がつぶし合ったことが、北条氏の伸長を招いたわけですが、ようやくこの時期になってそれを認めたようです。
これまで血縁でありながら、時には実の親子でありながらも争っていた三勢力が、ここへ来て結集することとなりました。
扇谷上杉氏の本城であった川越城を奪還するために、成長著しい北条氏に引導を渡すために、関東全域から総勢八万に及ぶ大軍が集まりました。関東管領、古河公方、そしてそれらと長年渡り合った上杉氏、そういった旧権力が合同して呼びかけたことで初めて実現したのです。
しかもこの連合軍は駿河の今川義元にも声をかけており、北条氏は川越に大軍が迫り、西からは今川氏が押し寄せるという、絶体絶命の状況となりました。
ところが、この負けるはずのない戦いで、連合軍は敗北しました。たった三千の兵しかいない川越城を長期の攻囲戦に持ち込み、今川氏と北条氏の和議が成立する余裕を与え、最後は油断をして八分の一の戦力で奇襲を受けて瓦解したのです。
ここで扇谷上杉氏の当主が戦死。後継者もなく、滅亡しました。関東地方の勢力関係は一変し、もはや関東管領にも古河公方にも北条氏を抑える力は残されていなかったのです。

関東管領の譲渡

北条氏に敗れた憲政が、越後の長尾景虎を頼り、家督を譲ったことは知られています。しかし、河越夜戦から越後への逃走までには十二年の間があったとみられています。
大敗を喫したことで北条氏の名望は高まり、旧権力の影響力は地に落ちました。上杉氏からも離反者は相次ぎ、武蔵、上野と浸食されていきます。しかし、それでも上野の北部で踏みとどまろうとし、それすらもかなわなくなった頃に、越後へと落ち延びたようです。
越後へ渡った憲政は、景虎を養子に迎えました。そして憲政を奉じた景虎は、対北条勢力を結集して関東へ出兵し、鶴岡八幡宮において儀を執り行い、上杉氏の性と関東管領職を継承したのです。
その後しばらく、憲政は歴史の舞台から姿を消し、名前が見られなくなります。

御館の乱

上杉謙信が没すると、上杉景勝と上杉景虎の間で家督争いが起きました。
この際、憲政は景虎方に味方しています。なぜか、は分かっていません。憲政の旧臣たちの多くは景勝に着いていますし、憲政が景虎に賭けるべき理由もありません。
この戦いは当初は景虎が優勢だったものの、徐々に景勝が押し返し、最終的勝利を勝ち取って謙信の後継者となりました。
このさなか、敗色濃厚となった頃に憲政は景勝の下に和睦を求めに出立しました。しかし景勝は交渉に入るまでもなく、憲政と、連れていた景虎の子を討ち果たしました。
1579年、享年五十七にて、憲政は亡くなりました。

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