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    Categories: 武将紹介 伊達家

伊達晴宗

孫の政宗の有名さと比べると地味な人物に思われがちですが、後の奥州事情に多大な影響を与え、関東に与えた影響も無視できないものがあります。

誕生から家督相続まで

1519年、伊達稙宗の下で誕生しました。稙宗は陸奥国において多大な勢力を築き上げ、前例のない陸奥守護に任じられています。しかし、さらなる勢力拡張をもくろみ、越後へも影響力を及ぼそうと画策したため、奥州、越後を巻き込む騒動に発展してしまいます。これが、天文の乱です。
事の発端は、越後守護職にあった上杉定実に男子がなかったことでした。そのため、稙宗の子、晴宗の弟を定実の養子に出し、越後守護職を継承させようとしたのです。これは決して、伊達氏からの押しつけではなく、定実自身が強く望んだことではありました。
しかし、晴宗はこれに猛反対。結果として伊達氏の勢力を弱める結果になるだろうと見なし、父を幽閉してまで阻止しようとしました。
天分の乱は六年にわたり、伊達氏の勢力は一気に弱体化しました。稙宗が築いた一大勢力は、見る影もなく衰えたのです。
しかしそれでも、稙宗を隠居させた晴宗は、伊達氏の新当主として、家中の統率を進めていくことになります。

諸豪族の代表者として

稙宗の代では圧倒的な勢力によって、最上、相馬、蘆名など後の伊達氏のライバルとなる諸勢力を従属下においていました。しかし、天文の乱による弱体化によって求心力を失った伊達氏には、もはやそれらを支配下に置く力はありませんでした。
特に蘆名氏は勢力を広げ、伊達氏に匹敵するほどになっていました。天文の乱では稙宗が優勢であったにもかかわらず、晴宗が逆転したのは、蘆名氏の寝返りがあってこそです。
また、伊達家中においても、晴宗の勝利に貢献した重臣の発言力は強く、晴宗の統治は晴宗一人の独断では行えないものになっていました。特に強い力を持っていた家臣は中野宗時であり、晴宗の政治には常に宗時が関与していたとみられます。宗時の力の強さは、晴宗の後を継いだ輝宗が、まず早々に宗時を追放することから始めたことにも現れています。
伊達氏が権力を掌握するには、それだけ障害になっていたというわけです。
こういった時期ですから、伊達氏が陸奥守護と言っても、稙宗の時代のようには行かず、家臣の独立性を重んじ、守護の権力を行使しないことを約束する必要がありました。

姫の強奪と婚姻政策

晴宗の政治には外交政略が多く見られます。それが結果的に伊達氏の力を回復させ、輝宗、政宗の代での力の源になっていきます。
男子六人と、女子五人に恵まれた晴宗ですが、その子達は全員一人の正室から誕生しています。晴宗はその正室、久保姫と仲むつまじく、側室もとらずに添い遂げたようです。
さぞかし友好的な馴れ初めなのかと思われるところですが、それどころではありません。むしろ、晴宗が久保姫を娶ったのは、久保姫の輿入れを襲撃し、攫うことによってです。岩城氏の娘だった久保姫は、常陸国の結城氏へ嫁ぐ途上でした。ところが、久保姫の美しさに惚れ込んでいた晴宗は、輿を襲撃し、人さらいとなったのです。
結果的には夫婦仲はきわめて良好で、お互い幸せだったのかも知れませんが、なかなかに激しい出会いです。
面目をつぶされた岩城氏ですが、晴宗の長男を養子に出したことで関係も改善され、むしろ晴宗の味方として戦ってくれました。

1564年に次男の輝宗に家督を譲り、隠居しますが、実権はまだ晴宗が持っていました。輝宗とは不和となりますが、宗時が追放されると権力は完全に輝宗が掌握しました。決着がついたからか、以降は親子関係も改善したようです。

晴宗が没したのは1578年。輝宗が二本松義継に討たれる七年前のことでした。

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