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    Categories: 武将紹介 伊達家

伊達稙宗

後の伊達氏に対して多大な影響を与えた英雄の一人です。しかしながらやり過ぎたと言いましょうか、家中を二分する内乱によってその影響力を失ってしまいました。

誕生から家督相続まで

1488年、伊達尚宗の子として生まれました。
二十代半ばの時、尚宗が亡くなったため、稙宗が当主となりました。この時期の稙宗は高宗と名乗っていました。将軍であった、足利義高から高の一字を頂いてのことです。後に、新たな将軍である足利義稙から植の字を拝領し、稙宗と名を改めています。
伊達氏は代々将軍から一字をもらうことになっていたようで、尚宗も義尚から、次代の晴宗も義晴から、輝宗は義輝からと、伊達氏の当主の名を覚えれば、将軍の名前も覚えやすくなるようになっています。
政宗の時は将軍の権威も失墜していたためか、例外となりますが。

最上氏との戦い

当主となった稙宗は、早速にも山形に進出し、羽州探題であった最上義定と交戦しています。最上軍と、その支配下の諸勢力軍を破った稙宗は、最上氏の本城山形城を射程圏に入れて圧迫し、自分の妹を最上氏に嫁がせて外交的影響力の基礎を築きました。
最上氏はこの敗北と、伊達氏から支配によって力を失い、内部では家臣団が力を持つようになっていきました。その結果婚姻から六年後、義定の死に際して、伊達氏の介入を嫌った最上家臣団が兵を挙げ、伊達氏との戦いに突入します。
しかし稙宗は、この戦いでも力を見せつけ、瞬く間に諸城を落とすと、一年ほどで鎮圧を成し遂げています。

中央との交流と外交政略

代々将軍から名前をもらっている伊達氏ですから、中央政府との関係を重視するのも自然な流れです。
最上氏を降して婚姻下に置いた伊達氏は、将軍家に多額の貢ぎ物を贈りました。稙宗と改名したのはこの時期です。そして、左京太夫という官位を授けられました。この官位は地方の有力者に与えられることの多いもので、購入される官位としては人気がありました。
それまででは、この地方の左京太夫は奥州探題であった大崎氏に与えられていたのですが、ここで伊達氏がその官位を与えられたことで、朝廷もまた伊達氏の権威を認めたということになりました。
また、後年では、陸奥の守護職を与えられています。陸奥や出羽国は守護が置かれておらず、羽州探題や、奥州探題が統治していました。それが、稙宗の代になって、陸奥に守護が置かれたのです。
しかも実質的に伊達氏は奥羽の支配者となります。
大崎氏で起きた内乱の鎮圧のため、支援を要請された稙宗は多大な戦力で駆けつけ、息子を大崎氏の養子に入れました。こうして大崎氏をも実質的な支配下に置いた稙宗は、正当な陸奥守護職の座にあると共に、奥州・羽州探題を従属させているという、近隣に並ぶもののない大勢力になったのです。

天文の乱

そのようにして積み上げてきたものを、一気に崩壊させてしまったのが、天文の乱です。
越後守護職にあった上杉定実には後継者がおらず、稙宗が自分の子を養子に入れようとしたのが騒動の始まりでした。
また、婿であった相馬顕胤に領土を譲るという話も起こり、晴宗はその点でも大反対だったようです。
晴宗としても、できるだけ小さな被害で食い止めたいと思っていたはずで、そのための方法が稙宗の拉致でした。鷹狩りの帰路を襲撃し、まずは稙宗を城に幽閉しました。稙宗派の顕胤なども、この時期では強くは出られず、交渉によって稙宗の自由を回復することを求めていました。
しかし、小染川氏の働きで稙宗が救出されてしまうと、もはや内乱は避けられず、六年に及ぶ天文の乱の始まりとなってしまいました。
当初は稙宗が優勢で、顕胤なども勇猛な働きぶりを残しています。しかし、稙宗に味方する有力者であった蘆名盛氏が、同じく稙宗方の田村氏と争い始め、晴宗派へと鞍替えしたため形勢が変わりました。
離反者も相次ぎ、戦争の継続も難しくなった時期、将軍となった足利義輝の仲裁を受けて停戦。稙宗が隠居することで天文の乱が終結したのです。

稙宗が亡くなったのは、それから十七年後。1565年のことでした。

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