足利高基

三代目の古河公方になります。戦国時代にはよく聞く話ですが、父と争って家督を継承し、子と争って家督を奪われました。

古河公方の成り立ち

1485年、古河公方足利政氏の子として誕生しました。古河公方というのは、元を正せば鎌倉公方につながります。足利将軍家から関東地方の統治を任されたのが鎌倉公方であり、鎌倉公方の補佐として政務に当たるのが関東管領の役割でした。
ところが両雄並び立たずというべきか、関東管領が鎌倉公方に匹敵、凌駕する力をつけるにあたって関係は悪化し、幕府と鎌倉府の争いもあって鎌倉公方は敗走、常陸国の古河に逃れて古河公方を名乗りました。
古河公方と関東管領は切っても切れない間柄で、時に和し、時に戦いながら時代を過ごしています。高基の時も例外ではなく、古河公方と関東管領、そして関東一帯を巻き込んだ争乱を起こしました。これは永正の乱と名付けられています。

永正の乱

関東管領上杉家と、古河公方足利家のお家騒動です。
事の発端は、関東管領であった上杉顕定が越後守護代の長尾為景に討たれたことに遡ります。顕定には二人の養子がおり、上杉憲房と上杉顕実の間で家督争いが発生しました。政氏は顕実に味方しましたが、高基は憲房方についたのです。
これによって、いずれの陣営も関東管領家と古河公方家の共同軍ということになりました。
政氏・顕実連合軍には小山氏や佐竹氏が味方しており、高基・憲房連合軍に協力する主な勢力は宇都宮氏でした。ほかには小田氏や伊達氏、後北条氏などの名前も見えます。
最終的には宇都宮氏が佐竹氏を相手取った合戦で大勝利を収め、政氏派の勢力が傾き、離反者を出したことで大勢が決しました。
これによって政氏は隠居を余儀なくされたのです。

関東享禄の内乱

高基が古河公方になったのが1512年。それから十七年後、今度は息子の晴氏が相手のお家騒動が起きてしまいます。なぜ起きたのかについては資料が不足しているようで、正確な展開はまだ明らかになってはいないようです。
このときの騒乱でも、古河公方と関東管領は密接に結びついていました。まるで、二十年前の騒動を復活させたかのように、高基には関東管領上杉憲寛が味方し、晴氏には憲寛の義理の弟憲政がついていたのです。またしても、古河公方家と関東管領家の同盟軍同士の争いです。
しかし、前回とは違い、この戦いは周辺勢力を巻き込むことはありませんでした。参加勢力は古河公方と上杉氏、そのほかには古河城近辺の宇都宮氏くらいで、小田、佐竹、北条などの名前は見えません。安房の里見氏の名前があるくらいが意外なところでしょうか。
二年間に及ぶ戦いの後、高基は敗れ隠居することになりました。これで晴氏が古河公方となり、憲政も関東管領となったのです。
それから数年後、高基は五十年の生涯を終えます。

古河公方の没落

晴氏の代に、古河公方は後北条氏によって傀儡化され、滅亡への道をたどることになります。しかし、古河公方の運命の舵は、おそらく高基の代に切られていました。
関東享禄の乱が永正の乱と比べてごく小規模に収まっているということは、すなわち古河公方や関東管領の影響力が弱まっていたことを示しています。
これは結局、永正の乱での大規模な動乱によって古河公方も関東管領も疲弊したということです。関東の古い権力構造である古河公方や関東管領が衰えるのと入れ替わるように、後北条氏が拡大していきました。もしこれらの内乱が起きていなければ、いかに北条氏の当主が名君と称されようとも、あれほどの勢力拡張を許すことはなかったはずです。
してみると、上杉顕定の敗死が関東の運命を決めたとも言えますし、長尾為景に謀反を決意させた長尾能景の死が北条氏を拡大させたとも言えるわけです。
一説には越後守護であった上杉氏が、守護代の能景を見殺しにしたことを恨んでの謀反だったとも言われています。これが事実なら、知らず知らずのうちに、上杉氏が同族の運命を決めてしまったことになります。
古河公方はそれに引っ張られてしまった、ということになるのでしょうか。

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