足利晴氏

独立した勢力基盤を持つことが出来た、最後の古河公方です。晴氏の代に古河公方の権力は後北条氏に簒奪され、滅亡へと向かうことになります。
誕生から家督相続まで
1508年、足利高基の子として誕生しました。高基が古河公方としての地位を継承する際には、関東一帯を巻き込んだ大騒乱となりました。高基とその父政氏が不和となり家督争いが始まった頃、山内上杉家でも顕実と憲房の間でお家騒動が発生しました。高基と憲房は同盟を結び、宇都宮氏の働きもあって、勝利することができました。これによって高基は古河公方に、憲房は関東管領となりました。
この父の代の騒動を小規模にしたものが、晴氏の時にも発生します。
晴氏と上杉憲政の同盟軍が、高基と上杉憲寛の同盟軍と戦い、二年間争って勝ちを収めました。これで晴氏が古河公方となり、憲政が関東管領職を継承することとなったのです。
叔父との戦い
晩年の晴氏の境遇だけを知る人としては意外かもしれませんが、晴氏の生涯は戦争にまみれています。家督も争いで獲得しましたが、その後も大きな戦いを経験しています。
その一つが、叔父であった小弓公方、足利義明との合戦です。これは第一次国府台合戦と呼ばれ、晴氏と北条氏綱の連合軍が、義明と里見義尭を打ち破った戦いです。この戦いで義明が戦死したことで、行動の自由を得た義尭が勢力を広げたりしました。
古河公方の血を引き、その正当性と対立する最後の存在がいなくなったことで、晴氏は古河公方としての権力を確立し、これからの数年間が古河公方の権威を誇れる最後になりました。
河越夜戦
圧倒的戦力差をひっくり返したことで有名な河越夜戦ですが、ここに晴氏も参戦していました。ただし、上杉方として。総勢八万にも及んだという関東諸勢力を結集した包囲軍が、八分の一程度の戦力で粉砕され、扇谷上杉氏の当主が戦死するほどの大敗を喫しました。これによって関東一円の勢力関係は決定的となり、後北条氏の優位が確定しました。
古河公方も独立を保つことはできなくなり、北条氏の庇護の元に幽閉されることとなります。この際、家督を次男の義氏に譲らされました。
古河城での最後の戦い
残念ながら、戦いというほどのものにすらなりませんでしたが、1557年、晴氏は最後の抵抗を試みました。
古河城への帰還を許された晴氏でしたが、すぐに陰謀が発覚してしまいます。長男藤氏と共に義氏を討伐して、古河公方としての権力を取り返そうというのです。しかしこの試みは失敗に終わり、古河公方の重臣によって晴氏は捕らわれ、今度は栗橋城に幽閉されました。そして三年後にはそのまま没してしまいます。
しかし古河公方という権威は失われておらず、その後も関東の戦いの中心に位置しました。
厳密には様々な事情があって一概には言えないのですが、関東管領職の任命権は古河公方にあると考えられていました。上杉謙信は上杉憲政から関東管領職を譲られていますが、古河公方は北条氏の傀儡となっていました。
このため、北条氏は謙信を関東管領とは認めておらず、氏綱の時代の働きにより当時の古河公方から関東管領に補任された、という主張も筋は通ってしまったのです。
この主張を崩すため、謙信は藤氏を擁立して古河公方の地位に就けるべく関東へ出兵し、十万ともいう大軍を率いて小田原を脅かすに至ったのです。
しかし、この正当性争いも1569年に終結します。この年謙信と北条氏政は同盟を結び、お互いの正当性を認め合いました。つまり、謙信は北条氏が擁立する義氏を正当な古河公方と承認し、氏政は謙信を正当な関東管領であることを受け入れたのです。
こうして古河公方と関東管領の任命権は切り離され、古河公方の政治的価値にもとどめが刺されました。
1583年に義氏が亡くなったとき、唯一の男子はすでに死亡していました。そのため、古河公方の家臣団は長女の氏姫を立てて古河公方の家は保持しましたが、もはや戦国の時代とは何の関わりもなくなりました。
その後、北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、小弓公方の血筋の者を氏姫と引き合わせ、喜連川氏として関東に所領を与えました。この家は五千石ながら大名格として破格の扱いを受け、そもそも徳川氏の天下であった江戸時代において、徳川氏の家臣ですらないというきわめて特殊な存在として残りました。











