里見義弘

北条氏政に押され、居城の陥落も間近となった時、果敢に打って出て形勢を逆転しました。北条氏との同盟にもこぎ着け、里見氏が存続する道も確立出来たのですが。

誕生から家督相続まで

1530年の生まれです。父は里見義尭。
三十代に入って父の隠居に伴って家督を引き継ぎました。以後も、実権は義尭が握っていたと言い、里見氏のどの政策、どの作戦がどちらの考案なのかは知られておりません。

三船山の戦い

当時の関東の情勢は、常に後北条氏を中心に展開されており、反北条の一翼を担っていた里見氏はこれとずっと敵対関係にありました。
第二次国府台合戦で里見氏が敗北した後、下総、上総に北条氏の勢力が入り込みながらも、上杉氏の関東出兵などのおかげもあって、徐々にではありますが失地を挽回していきました。
1567年になると北条軍は里見氏が本拠地としている、久留里城、佐貫城を陥落させようと、砦を構築しました。義弘は城に籠もって守勢に徹するのではなく、砦を陥落させるべく出撃しました。
北条軍の大軍が救援に向かい、一軍は砦の防衛を、二軍は義尭の守る久留里城を目指しました。砦を襲った義弘の軍勢は氏政を破り、北条軍を付近一帯から退かせることに成功しました。
これによって瞬く間に勢力を盛り返し、領地を下総まで伸ばしたのです。

房相一和

しかしながら、関東情勢の主役はそれでも北条氏でしたし、そのライバルは上杉謙信や、武田信玄でした。上杉、武田、北条は関東三国志とも呼ばれる宿敵関係で、時に和し、時に戦いました。三船山の戦いで里見氏が盛り返した後、北条氏と上杉氏で同盟が結ばれました。
これに対抗して里見氏は武田氏と結びましたが、大きな影響はありませんでした。
上杉氏による圧迫を逃れた北条氏は、いよいよ行動の自由を得ることになります。数年の後には里見氏の隆盛を築いた義尭も没し、里見氏の劣勢は決定的となりました。
北条軍は里見氏の本国である安房の国境近くまで兵を進め、もはや里見氏の滅亡、もしくは従属は時間の問題となった頃、両家の間で同盟が締結されました。
この同盟は豊臣秀吉による小田原征伐が終了するまで続き、幾ばくかの衝突はあったものの領地の奪い合いは姿を消しました。
里見氏への決定的勝利を目前としたこの段階で北条氏が同盟という選択肢を選んだ理由としては、他勢力への早期の対処を可能にするためというのが考えられています。国力差から考えて、戦いを続ければ北条氏が勝つのは確実でしたが、時間はかかります。上杉・武田・佐竹などの有力勢力に囲まれている北条氏としては、同盟という形で南東方面の問題を早期に終結させられることは戦略的に価値があることだったのでしょう。

房総一和と呼ばれるこの同盟の後、義弘が急死しました。義弘の弟義頼と、義弘の子梅王丸との間でお家騒動が勃発しましたが、北条氏は静観したといいます。義頼には氏政の娘が嫁いでおり、義頼を助けて里見氏を掌握させる理由は十分ですが、中立を保ちました。
また、その後に続いた正木氏の反乱の際にも、里見氏の要請通り不介入を守りました。

小田原征伐とその後

里見氏は拡大する豊臣氏に対して従属の姿勢を取りました。
しかし、豊臣政権に従うということは、北条氏を討伐するための小田原征伐にも加勢しなければなりません。里見氏は北条氏との同盟と、豊臣氏への従属の間で立ち回り、小田原に遅参したことで秀吉の怒りに触れ、下総、上総の領地を没収されました。
関ヶ原の合戦では徳川家康に味方して所領を加増され、石高は十二万石となったのですが、1613年に大きな事件に巻き込まれてしまいます。
大久保忠隣の改易です。当時の里見氏は大久保氏から嫁をもらっており、連座して責任を問われたのです。その結果、関東の領地を奪われ、伯耆国に三万石を与えられました。しかも世継ぎに恵まれなかったため、その代で断絶。大名家としての里見氏は滅亡してしまいました。
もっとも、外様大名が関東にいることを嫌った徳川氏のこと、この件がなくてもいずれは追いやられていたのではないかという見方もあります。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

ページ上部へ戻る