関東地方で猛威をふるっていた後北条氏。その北条氏と正面からぶつかり合い、劣勢を強いられながらも戦い続け、国土を保ちました。
誕生から家督相続まで
1507年頃の誕生と考えられています。父は里見実堯。
義堯が当主となるまでの過程には二説あり、一つは長く伝えられ信じられてきたもので、もう一つは近年の研究によって提唱されたものです。
里見氏の本流は実堯の兄義通であり、本来の当主はその子義豊になるはずでした。ところが、実堯と義豊の間で継承権の争いが起きたようで、理由はどうあれ義豊によって実堯が殺害されました。
そして実堯の子であった義尭は北条氏綱と結んで援護を乞い、その助力もあって里見氏本家を討ち下して当主となったのです。
義尭が二十代半ばの時です。
第一次国府台合戦
里見氏と後北条氏は長く敵対しましたが、その原因には古河公方が関係していました。
古河公方の一族に足利義明という人物がおり、この人は後に小弓公方を名乗って古河公方と敵対しました。古河公方は後北条氏と結び、小弓公方には里見氏が味方しました。
足利義明が北条氏綱との決戦に挑んだ時、義尭も参陣したのですが、里見軍の動きは積極性に欠け、義明は戦死。小弓公方という勢力は滅んでしまいました。
その後、小弓公方の力が及んでいた地域が権力的空白地となったため、北条氏、里見氏共に分裂した勢力を一つ一つ攻略して勢力を拡張しました。
結局の所、義尭は小弓公方に属してはいたものの、小弓公方の消滅のおかげで勢力の拡張に成功したわけで、そういう情勢では里見軍の士気が上がらなかったのは無理もないのかもしれません。
里見氏と北条氏が共に同じ地域で勢力を拡張している以上、衝突しないはずもなく、何度も部隊が衝突し、城を奪い奪われる関係が続きました。
第二次国府台合戦
北条氏の勢力拡張は目に余り、河越夜戦では扇谷上杉氏を滅ぼすほどの力を見せつけました。関東の動勢を憂いた上杉憲政の要請で上杉謙信が関東へ兵を出すようになります。北条氏に対する敵対勢力として一翼を担う里見氏も上杉氏と同盟を結びました。
ひとまず謙信は関東への足がかりとして、北条氏に属す常陸の小田氏治を攻撃しました。小田氏が陥落すれば、行動の自由を得た上杉軍が大挙して押し寄せるのは間違いなく、北条氏康はそれは待たずに積極的に打って出ました。
上杉軍がまだ常陸で足を止めている間に、里見氏は太田氏と共に北条軍と戦うことになったのですが、ここで不注意によって大敗を喫してしまいます。
北条軍主力に対して野戦で圧倒、多大な戦果を与えたのに気をよくしたのか、酒盛りに興じてしまいます。その隙を突いた奇襲部隊に敗北し、里見氏の本拠地となった久留里城の間近まで迫られるほどに追い詰められたのです。
幸い、謙信が背後を脅かしていたため長期の包囲戦に耐えられる状態ではなかったため、北条軍はそこで兵を引きました。
義尭最後の大勝利
義尭が統治した時代、里見氏は全盛期を迎えていたといいます。安房一国を掌握し、上総、下総にまで勢力を広げ、関東の雄北条氏ともぶつかり合えるほどの勢力でした。
しかし、上杉謙信の介入なくしては関東の情勢は圧倒的に北条氏に有利であり、里見氏との国力差は歴然としていたのです。
そのため、徐々にではありますが確実に北条氏の勢力は里見氏の領土を侵食していき、里見氏の本拠地まで迫ってました。
北条軍は三船山に砦を築き、義尭の子であり、すでに里見氏の当主となっていた義弘の居城を攻撃する準備を整えました。義弘は自分から打って出て、三船山を攻撃。北条軍は三船山への救援と、義尭の籠もる久留里城への攻撃とで二軍に分けました。
北条氏の当主であった氏政率いる大軍に対して八千の兵で攻撃を仕掛けた里見軍でしたが、これに快勝。水陸からの追撃を避けるため、北条軍は全軍を相模まで撤退させる事になりました。
これによって一時的に里見氏は優位を確立し、下総まで勢力を巻き返すほどでした。
そうしたなか1574年、本城で没しました。