X
    Categories: 武将紹介 畠山氏

畠山義綱

戦国末期、能登畠山氏は大名としての体裁をなさないままに滅んでいきました。その中で、最後に大名として踏みとどまろうとしたのが義綱です。

誕生から家督相続まで

畠山義続の子として誕生しましたが、生年は不明です。
能登畠山氏は管領も務め、いくつもの領国を治めた畠山氏の分家で、家柄としては名門中の名門でした。しかし、義続の代には大名としての力に乏しく、相対的に家臣達の力が強くなりすぎました。結果として、実権は畠山七人衆と呼ばれる重臣達に掌握され、義続は隠居を強制され、義綱が当主となりました。

七人衆との戦い

当主となった義綱の当面の目標は、政治を牛耳っていた畠山七人衆から統治権力を奪還することでした。まず手をつけたのは七人衆筆頭の温井総貞の暗殺でした。総貞は先々代畠山義総の代から仕える重臣で、義総からは深く信任された人物でもありました。それだけに力も強く、義続の代からは主家をないがしろにする行為が目立ちました。義総の代は能登畠山氏の全盛期とも評されており、その時代に見いだされ重く用いられるようになった総貞によって、畠山氏が没落していったというのも皮肉な話です。
義綱が総貞を誅殺すると、温井氏と親しかった勢力が一向宗を味方につけて反乱を起こしました。弱体化していた畠山氏ではありましたが、数年のうちにこれを鎮圧し、大名権力の回復を示しました。
しかしながら、着々と力をつけていた主家に危機感を覚えた残りの七人衆は謀反を起こし、義綱・義続親子を国外へと追放してしまいました。この動きに抵抗しきれなかった義綱達は、縁戚であった近江の六角氏への下へと頼っていきました。
六角氏や上杉氏の力を借りて能登の奪還を何度も試みたようですが、すべて失敗に終わりました。

義綱の働き

義綱の統治の時期には、権力の回復と、それに伴って畠山氏が自由に出来る資金にも余裕が出てきたようです。将軍家に贈り物をしたり、神社の建設にも手をつけています。能登一宮の再建には、七千疋もの寄進を行うまでになっていました。
また、能登の南に接する越中では神保長職が騒乱の火種となっており、義続の代でも争いの調停を行っておりましたが、義綱も神保氏と上杉氏の戦いに働きかけ、落としどころを見つけさせて停戦にこぎ着けています。

滅び行く畠山氏

義綱が追放された後、畠山氏の当主は息子の義慶が擁立されました。もちろん、擁立したのは七人衆であり、実態は傀儡君主に過ぎませんでした。当主となってから十年たたずに没しますが、一説には毒殺と言われています。その後は義慶の弟が継ぎ、その弟も程なくして亡くなると、その子が当主となりました。しかしこの子はまだ幼く、実権は長続連に握られていました。
この時期は、第三次信長包囲網の一翼として上杉謙信が北陸侵攻を本格化させた時期です。越中の神保氏も瞬く間に謙信に滅ぼされ、次は能登の番でした。
当主の春王丸自身には統治能力はなく、家臣達の間で上杉氏との関係をどうするかが協議されました。結局は上杉氏の介入を拒絶したい続連の意向でまとまり、七尾城を中心に籠城して交戦する道を選びました。
七尾城を取り囲む支城郡は謙信によって瞬く間に陥落していき、容易く孤立してしまいました。しかし上杉氏の方でもあまり余裕はなく、関東で北条氏に動きがあったためにすぐには七尾城には手出しが出来ませんでした。
関東への対処が終わった数ヶ月後、今度は本格的な七尾城攻めが始まりました。さすがは堅城で鳴らした七尾城で、謙信の攻撃にもすぐには落ちませんでした。織田信長が能登への援軍を差し向けたため、謙信としても時間との勝負になりました。
そんな時期、七尾城では疫病がはやり、このときに当主春王丸も亡くなったそうです。次第に敗色濃厚となり、かねてから親上杉派だった遊佐氏が寝返ったことで、戦いに決着がつきました。
こうして能登畠山氏は、大名として家臣を率いる形ですらもなく、家臣に引きずられる形でいつの間にか滅んでしまいました。

その後の義綱の事蹟はあまり残されておらず、1593年に近江で没したとされています。もはや能登への復帰もままならない時勢でしたので、その後は余生としか言いようのないものだったのではないかと思います。

sengoku m :