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長尾晴景

戦国武将でも五指に入るだろう有名人、上杉謙信の兄です。軍才に恵まれず、時代に適さなかった人物ですが、それがかえって幸いしたのかもしれません。

誕生から家督相続まで

1509年、長尾為景の子として誕生しました。当時の為景は主君であった上杉房能を討ち、その復讐のために越後に侵攻した上杉顕定との戦いの最中でした。結局為景が顕定を下し、上杉定実を傀儡として越後の実権を握りました。
しかし、反乱の絶えない越後の統治は難しく、上条定憲らによって為景は隠居に追い込まれ、嫡男であった晴景が当主となりました。
晴景の晴の一字は、将軍足利義晴から拝領したものです。

病弱故に時代にそぐわず

晴景は文芸に明るく、武芸を好まなかったと伝わっています。体も弱く、戦乱の世には不向きだったようです。それでも統治の初期は越後国内の騒乱を宥和政策によって鎮めることに成功したようで、そのまま大きな混乱が生じなければ、あるいは当主の座に居続けられたのかもしれません。
軍事に才能がないながら内政面で一定の功績を挙げた大名としては、朝倉義景や大内義隆などもいますが、やはり戦国時代のまっただ中ではのんびりとはしていられないようです。
主君であった越後守護、上杉定実には男子がなかったため、伊達氏から養子をもらう話になりました。これに対して越後では賛成派と反対派で国を二分した争いに発展し、国内では混乱を極めました。
語り合うだけでは解決できない問題にぶつかった時、武力衝突が避けられないことがあります。晴景にはこういうときの対処能力が欠けていました。越後の豪族達は晴景を侮り、謀反を起こす者も出てきました。そんなとき、謀反を起こした豪族の討伐に差し向けたのが、弟の景虎でした。
元服を終えたばかりの十五歳の景虎でしたが、最初から連戦連勝。手向かう謀反人達をことごとくねじ伏せていったのです。
この活躍に越後の諸将は、晴景よりも景虎を主君として戴くべきだと考えるようになり、定実もまた景虎がふさわしいと見込むようになったようです。
そうして今度は晴景派と景虎派で争うことになりましたが、定実の調停の下、景虎が晴景の養子となり、晴景が隠居して景虎に家督を譲ることで決着がつきました。後の歴史を知る我々としては、長尾氏としてはよい道を選んだように思われます。

晴景が微妙に優秀だったら

長尾景虎と言えば、後に上杉謙信となって武田信玄と互角の戦いを演じ、関東に勢力を拡大した北条氏の拡大をも抑制した名将として知られています。
しかしその資質も一武将としてでは発揮できないものでした。もし晴景がもうちょっと普通に優秀で、一時代を代表する名将ほどではないが、凡庸とは呼べないくらいの能力を持っていたならば、歴史はどう変わっていたでしょうか。景虎の登場を待たずに越後の混乱を抑制し、長尾氏の勢力を保持していた場合、果たして軍神が世に出てきたかどうか。
塞翁が馬とは言いますが、晴景がまったく時代にそぐわない人物であったことは、かえって長尾氏にとって幸いだったのかもしれません。
ただ血筋の点で言えば、景虎が子をなそうともしない人物であったため、長尾氏・上杉氏の血筋には為景の血が残せなかったという問題はあったかもしれません。

晩年

隠居をしたのが1548年。奇しくも、定実の養子問題から発した伊達氏の騒動、天文の乱の終結と同じ年でした。長尾氏も伊達氏も巻き込んだ養子問題が、同じ期間で終結したのは何かの偶然でしょうか。
隠居後の晴景がどのように過ごしたのかは不明ですが、名目上景虎の父となったわけですから、景虎のこと無礼の無いように遇したのではないかという気はします。
五年後の1553年に亡くなりました。享年は四十二でした。

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