長尾為景

義の人と言われる上杉謙信の父であり、主君を二人も殺めた下克上の手本でもあります。子は親の背中を見て育つと言いますが、そうとも限らないようです。
誕生から家督相続まで
生年は不明ですが、1489年説が主流のようです。父は長尾能景。
長尾氏は代々越後守護代を務める家系で、この時代も越後守護であった上杉房能の家臣でした。室町幕府における守護は、基本的に都に身を置き、実際の領国経営は守護代が行うのが慣例でした。
能景も守護代として実際の越後の統治を任されていたようです。守護というのはその地域の責任者であり、太守とか総督という身分にも近いのですが、全権が委任されていたわけでもありませんでした。
室町幕府では守護使不入という制度があり、守護といえども介入できない地域が存在していたのです。この制度のおかげで越後の国人衆は守護である上杉氏に対する納税を軽減することが出来ていました。
ところが、房能の代になると、越後における守護使不入を認めないことが宣言されました。以後は検地を行い、これまで課税を免れていた農地にも税が課されることとなりました。
中でも強く既得権益を侵害されたのが守護代だった長尾氏です。それでも能景は主君に忠実だったようで、能景存命の間は混乱もなかったのですが、その能景が越中への遠征中に一向宗に討たれてしまいます。
長尾氏を継いだ為景は房能の養子、定実を擁立して房能に対して敵意を向けました。
この裏には、能景が窮地に陥った際、房能が援軍を出さなかったことが影響しているとも言われているようです。
二つの下克上
当主となってまだ一年ほどの頃、為景は房能打倒の兵を挙げました。
旗印は上杉定実。房能の方でも準備を始めてはいたようですが、為景の挙兵地点が近く予想よりも早い時期だったため、関東を目指して逃走中に追いつかれて討たれました。それでもこの事件は越後守護代による守護職の簒奪ではなく、守護代による新守護の擁立ということで、幕府の方からは新守護の承認も取り付け、幕府との反目は回避されました。
これは為景があらかじめ、親交のあった名門畠山氏を通じて幕府と友好関係を築いていたことが功を奏したもののようです。しかし、房能には兄がいました。関東管領、上杉顕定です。
能景の時代には長尾氏は顕定を助けるために関東まで出兵しましたが、今度は敵同士です。為景にとって、この戦いは簡単ではありませんでした。房能の時のような準備不足の相手に対する奇襲ではありません。
正面からの戦いで押し込まれた為景は越中へと身を潜めることになりました。そこで、伊達氏をはじめ、信濃や能登、飛騨の勢力に協力を求め、戦力の充実を待って越後へと進み、各所での合戦の勝利によって勢いを増し、顕定方から離反者が出るに及んで、ついに長森原の戦いで顕定を討ち取ったのです。
こうして為景は、越後守護代という身分にありながら、越後守護と関東管領という上役二人を殺害したことになるわけです。顕定の養子憲房は「天下に例がない」題目だと評しています。
隠居
越後は国人衆の力の強い地域で知られており、このことは後の上杉謙信にとっても頭を悩ませる問題でした。
為景の時代でもそれは変わらず、実質的な越後の権力者となっては見たものの、それで直ちに越後が一枚岩になるということではありませんでした。国内では国人衆の反乱に苦しめられ、その鎮圧に苦心しています。
越中では、父の仇の一人とも言える神保慶宗を討つなどの活躍も見せましたが、1536年までには隠居へと追い込まれたようです。
家督を嫡男晴景に譲った後も後見人として実権を握ったとも、程なくして死没したとも伝えられておりますが、正確な死亡時期は不明です。
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