神保長職

越中で勢力を拡張し、何度も上杉謙信と戦うという非常に果敢な活躍を見せました。戦うたびに負けてはいるものの、何度でも立ち上がる気力は特筆すべき事でしょう。
出自
確定した資料がなく、誕生年や父親などもはっきりとはしていませんが、神保慶宗の息子ではないかと考えられています。
慶宗は越中守護の畠山尚順に仕える、越中守護代の地位にありました。
しかしながら畠山氏からの独立を画策したため、畠山氏と越後の長尾氏の攻撃を受けて敗死していました。
どのようないきさつがあり、長職が神保氏をとりまとめたのかは定かではありませんが、確かに神保氏の当主として勢力を回復させ、越中における最大勢力にまでなったのは間違いありません。
上杉謙信との戦い
神保氏と長尾氏との戦いは先代慶宗からの因縁でした。
そもそもといえば一向一揆に敗北した慶宗が長尾能景を頼ったのが始まりでした。
能景は期待に応えて一揆軍を破る活躍を見せたものの、慶宗は突如として長尾氏を裏切ったとされ、そのために能景は一揆軍に敗北して戦死しました。
それ以後、能景の子為景と合戦を繰り返す間柄となり、最終的には畠山氏との連合軍によって慶宗が討たれるに至ります。
長職が神保氏を継いだ頃はすでに長尾氏と事を構えられる力はなくなっており、両者の争いも息を潜めていたようですが、1545年になると、長尾氏と親しい間柄の椎名氏を攻撃しました。
長職は戦いを優勢に進めたようで、1560年頃には椎名氏は滅亡の危機に瀕していました。
ここに至って長尾景虎(上杉謙信)は椎名氏の救援軍を派遣しました。
神保氏と椎名氏の戦いは、越中の覇権を懸けた両者の争いというほかに、長尾氏と武田氏の代理戦争という側面がありました。
椎名氏は長尾氏を後ろ盾としていましたが、神保氏はそれに対抗するため甲斐の武田信玄と結んでいたのです。
軍神と称される景虎の出馬となっては長職に勝算はなく、たちまちに敗れますが、景虎は忙しい身でした。
関東では後北条氏が勢力を広げて騒乱の種をまき散らしていました。
それに対処するために、早々に引き上げねばならなかったのです。
景虎が去った後は、長職はまた元のように椎名氏との争いを始めました。
長職もそうしたかったし、信玄も長職にそうさせたかったので、支援を続けていたのです。
そうして数年後、再び謙信が越中に遠征を行い、また長職を破っておとなしくさせました。
これによって椎名氏は勢力を盛り返し、越中における勢力図が書き換えられることになったのですが、今度はその椎名氏が信玄と結んで謙信に反旗を翻しました。
椎名氏を攻撃するべく謙信が来襲し、やはり瞬く間に城を落としていったのですが、今度は重臣の謀反への対応で帰国することとなりました。
こうした情勢の変化の中で、神保家中は親上杉派と反上杉派に別れて内紛を起こし、上杉氏の介入で親上杉派が勝利しました。
これで神保氏は上杉氏の同盟国となって落ち着くかと思えばそうでもなく、数年後にはまた上杉氏と敵対していよいよ滅亡へと向かっていくことになります。
信長包囲網、そして滅亡
すでに信玄も没した1576年、将軍足利義昭の要請によって結成された第三次信長包囲網では、上杉軍が北陸を通って織田軍と衝突する作戦が立てられました。そのためには越中は通り道です。越中を押さえた後は、さらに越前へと駒を進めるための補給線確保として能登の制圧も必要でした。
謙信は越中、さらには能登を掌握するのに足る戦力を動員して、大攻勢をかけました。
これまで武田信玄を始め、外部からの支援で勢力を保ってきた神保氏、椎名氏にとってこれではひとたまりもなく、ついになすすべもなく歴史の表舞台から姿を消しました。
このときはすでに神保氏の家督は次男の長城に受け継がれており、長職は数年前に病没していたようではあります。











