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    Categories: 武将紹介 一条氏

一条兼定

土佐に勢力を張っていた由緒ある家柄の、最後の大名でした。長宗我部元親によって瞬く間に侵略され、一代で家を滅ぼした人物として知られています。

誕生から家督相続まで

1543年、一条房基の子として誕生しました。一条氏は土佐において最大の勢力を誇り、その力は他の勢力とは比較にならないほど上位におかれていましたが、比較的新い勢力でした。一条氏が土佐に住み着いたのは、ほんの百年ほど前、関白にもなった一条教房からでした。
土佐一条氏の二代目、房家の時代には、土佐で起きた騒乱で長宗我部国親を保護し、所領へ復帰できるように取り計らっています。
兼定は七歳のときに父が自殺したため、幼くして当主となりました。
この期間は関白となっていた一条房通が後見人を務めました。房通は兼定の大叔父に当たります。

相次ぐ敗戦

一条氏は、兼定の父房基の代辺りから、戦国大名としての振る舞いが目立ってきました。もともとは公家でしたので、あまり武家のような勢力拡張には熱心ではなかったようです。
早くに自殺してしまった房基ですが、武将としては優れていたようで、勢力の拡張に成功しています。
兼定もその方針に従ったのか、戦国大名然とした政略が見られます。
伊予の宇都宮氏との婚姻同盟、さらにはその婚姻を解消してまで結んだ、九州大友氏との婚姻同盟など。
兼定は大友氏と協力して、伊予へと兵を進めました。
伊予に対して影響力を伸ばす大友氏と、それをよく思わない毛利氏の思惑も重なり、大友氏に支援された一条氏と毛利氏に支援された河野氏という図式の戦いになりました。
この戦いは伊予全土を巻き込んだものとなり、かつての婚姻相手であった宇都宮氏も一条氏に味方して毛利勢と戦いました。
一般的に笑われるほど兼定の采配は悪いものではなく、着実に伊予に勢力を伸ばし、西園寺氏を降して毛利軍との戦いに備えられる状態にはなっていました。
結果的に一条氏は大敗を喫し、ここから一条氏の衰亡が始まったとも見られますが、敵将が稀代の名将小早川隆景であったことを考えれば、この敗北でことさら兼定を非難するべきではなさそうです。

この頃の土佐は、長宗我部国親の代から長宗我部氏が東部で勢力を伸ばし、一条氏の威勢にもかげりが見えてきていました。
一条氏としては、東部で勇躍する長宗我部氏と争って土佐を平定するよりも、有力大名である大友氏と結んで、小勢力の割拠する伊予を目指したのではないかと思われます。
すでに長宗我部氏は元親の代となっていましたが、この戦いまでは敵対関係にはありませんでした。
元親がはっきりと反一条の動きを見せ始めるのは、これ以降でした。
長宗我部氏はすぐに一条氏の領土を侵食していき、兼定は追放に追い込まれています。
しかし兼定もそれでは終わらず、大友氏の支援を受けて伊予で旧領奪還のための兵を集め、元親に戦いを挑みました。
この段階でも一条氏に味方をする戦力を集められたことは立派なことですが、結果は惨敗でした。

人格的な問題

兼定が家を滅ぼした原因として上げられるのが、その横暴さです。
いくつかの文書では、兼定は残虐な性格で、無実の臣を罰し、酒色に溺れ放蕩の限りを尽くしていると記されています。
伊予での敗戦の後、重臣を不当に処刑したことで、家中の統制が乱れ、元親の進出を許したのは事実のようです。
どこまでが事実なのかは分かりません。しかし、元親は晩年まで兼定の勢力を警戒していました。
兼定に暗殺者を差し向けたのも、生かしておけば障害になると考えてのことでしょう。
落ちぶれてすらそれだけの勢力を保持出来た兼定なら、信望さえあれば土佐で支える道もあったのではないかという気はします。

奪還作戦に敗北してから十年後、1585年に四十二歳で亡くなりました。キリスト教徒でもあった兼定は信心深く、とても熱心な信者であったと残されています。

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