長宗我部信親

四国の覇者長宗我部元親の嫡男で、将来を嘱望されていた後継者でした。しかし、不測の事態で命を落とし、そこから長宗我部氏は没落への道に入ったとも考えられます。

出自

1565年、長宗我部元親の下で誕生しました。当時の元親は亡き父の意志を継いで土佐で勢力を拡張中でした。元親が信親にかけていた期待は大きく、武芸においても学問においても遠方から優れた師を招聘したほどです。
馬術に槍、弓、太刀、鉄砲、いずれも別な師を与えられています。さらに笛に太鼓、蹴鞠に碁、和歌にも連歌にも別々な師匠が付いていました。信親が好んだのは、やはり武芸だったようではありますが。
信親は期待に応え、若くして知勇兼備の将として称えられました。その神童具合は織田信長の耳にも入ったようで、信長が養子に欲しがったとも伝えられています。
信親の信の字は、信長から一時拝領したものです。

短い活躍期間

信親の初陣がいつ頃なのかは不明ですが、存命中は長宗我部軍の中核を担って活躍をしていました。その活躍がはっきりと残されているのは、信長が本能寺の変で倒れた1582年、織田氏の後ろ盾を失った十河、三好氏との戦いです。
中富川の戦いとして伝えられているこの戦いでは、総勢一万七千の長宗我部軍のうち、一軍を率いています。 この戦いに勝った長宗我部氏は阿波を掌握していきます。
後の羽柴秀吉による四国征伐では、長宗我部氏は秀吉の軍と大きな会戦をしていません。戦力を残存させたまま降伏するのは恥として、決戦するまでは降伏しないと元親は主張していましたが、最終的には説得を容れて早期の降伏となりました。
このとき、決戦に訴える場合、一万八千の戦力を信親に与えて戦わせるとしていました。この段階でも、信親は元親の期待を裏切らず、大軍を率いる大将として申し分ないと見なされていたことが分かります。

戸次川の戦い

信親の最後は、その翌年になります。
四国を平定した秀吉は、次の目標を九州に定めました。島津氏の攻撃を受けた九州の大友宗麟から要請を受けて、大軍を擁して島津氏の攻略に向かうことにしました。本隊は翌年に到着するとして、ひとまずの防衛戦力として送り出されたのが、仙石秀久率いる四国勢でした。長宗我部からは元親と信親が参陣し、府内城の守備に当たりました。
軍監として先発隊の指揮を任されていた秀久には、持久戦が指示されていました。本隊が到着すれば戦力差で一揉みにするのだから、それまでは堅く守り、自分から打って出ることはするなと。
ところが、島津軍の度重なる攻撃にしびれを切らし、秀久は出陣を決意します。
長宗我部親子は反対しましたが、指揮官の命令とあっては背くことも出来ず、信親は第二陣、元親は第三陣として出撃しました。
島津軍は得意の釣り野伏せ戦法で先陣の秀久をおびき出し、潰走させました。勢いに乗じて襲いかかってきた島津軍により、第二陣も壊滅。第二陣を任されていた、信親、十河存保らは討ち死にしました。

元親の乱心から長宗我部氏の終演へ

幼い頃より期待をかけ、それに応え続けていた後継者を失った元親は、精神的に支えきれなくなったようです。それまでは厳しくも筋を通す主君として知られていたものが、ただの暴君となり果てました。
側近の意見は耳に入らず、闇雲に人を罰し、信望を失っていきました。そして四男の盛親を後継者と指名したわけですが、その理由は信親の娘を娶らせる都合でした。年の近い四男の方がよいだろうと。
家臣達の強い反対を押し切ってまでも、信親の血を宗家に残したいということでした。もし信親が生きながらえていたならば、後期の長宗我部氏の混乱はなく、元親も汚名を残さずにすんだことでしょう。
早くに没したからこそ美化されるというのを差し引いても、温和で思いやりがあり、寡黙ではあるが話は聞き、勇敢で思慮深いという信親を失ったことは、長宗我部氏の不幸でした。
後に、信親の武具が元親に返却された時、原形を留めないほどに傷ついていたといわれています。

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