長宗我部国親

四国の雄と言えば子の元親ですが、その勇躍の礎を築いたのが国親でした。
誕生から家督相続まで
1504年、長宗我部兼序の子として生まれました。
当時の長宗我部氏は土佐における一有力家門でしかありませんでした。他に安芸、本山、香宗我部、大平、津野、吉良などの有力勢力と並び「土佐の七守護」と称されていました。
長宗我部氏の権力基盤は管領細川氏との結びつきによって成り立っていました。ところが細川氏で混乱が生じたため、土佐の状況にかまっていられなくなったのです。すると、細川氏の後ろ盾をいいことに横暴な振る舞いの目立っていた兼序は目の敵にされ、本山氏を中心に、大平、吉良などの連合軍に攻め込まれ、岡豊城は落城。兼序は自害し、幼い国親は一条房家の下に落ち延びました。
一条氏は土佐の七守護とは別格とされるほどの勢力を保持していましたので、房家の仲介のおかげで国親は所領を取り戻し、岡豊城へと復帰することが出来ました。
後に元親の代、「恩義に背いては罰が当たる」と恐れた逸話がありますが、そのときの恩義というのがこのときのことのようです。
なお、国親の国の字は管領になった細川高国から一時拝領したものです。
戦国大名として
1544年頃から、国親の活躍が見られるようになりますが、どうやらそれ以前の段階ですでに並外れた手腕を持っていたように思われます。
それを助けた参謀が吉田孝頼という人物だったようですが、それほど多くの記録が残っているわけではありません。国親の妹を娶り、長宗我部氏の発展に貢献しました。1544年に、国親は娘を仇敵であった本山氏に嫁がせるのですが、ここで一つの策略が見られます。その娘はもともとは香宗我部氏に嫁ぐ約束になっていたのを、突如本山氏へと変更したのです。怒った香宗我部氏は長宗我部氏と争う姿勢を見せましたが、孝頼の取りなしでその軍勢を本山氏へと向けました。
一時和を結ぶこととしたとはいえ、潜在的な敵同士を争わせるというのは、物語ほどにはうまくいかないものです。
国親の外交戦略は続き、婚姻による懐柔の他、香宗我部氏には三男を養子に入れて従属させました。
合戦も積極的で、いくつもの城を攻め落とし、父の仇の一人である山田氏も討ち果たしています。
一領具足
戦国時代と言えば織田信長が一番の有名人でしょうか。信長と言えば半農半兵であった領民を専門の兵士へと変えたことでも有名です。兵農分離によって季節にとらわれずに戦争をすることが可能になり、侵攻を高速化しました。
それに対して長宗我部氏では一領具足という制度が発達しました。考案者は孝頼とも言われていますが、国親の代に成立したものです。これは半農半兵のままで、合戦に対応しやすくしたものです。
本質を変えて新しい方向に向かったのが信長なら、今あるものを改良して合戦向きに調整したのが国親ということになります。
復讐の半ばで
1555年、本山氏の当主が交代すると、本山氏との戦争に突入しました。相手は、まさに娘が嫁いだ本山茂辰です。婚姻など、外交で対処し、直接的な戦いを避けては来ましたが、やはり国親にとって本山氏は父の仇でした。
戦いは国親が優勢に進め、長浜城を陥落させるところまで進みました。しかしここで国親が病を発し、まもなく没しました。家督は元親が継ぎ、本山氏を降伏に追い込みます。
本山氏との戦いに突入する前にちょっとした逸話が残っています。なんでも、本山氏の戦力がどれほどなのかを探るため、宴を企画したようなのです。名目は舅が婿に挨拶に行くということになっていました。そこで国親は侍女に変装をして、情報収集に当たりました。五十ほどの歳ですから、オバチャンに化ければいいわけで、誤魔化しは利きやすかったのかもしれません。しかし、若い頃の元親が武士としては頼りなく、姫若子と揶揄されて困っていた国親にそういう逸話が残されていることは皮肉なものです。











