東北地方の雄と言えば伊達政宗の名が第一に浮かぶ人が多いと思いますが、それに先んじて勢力の拡大に成功した人物でした。
出自
1517年に南部安信の子として生まれました。南部氏は、晴政で二十四代続いたことになります。それにしては奇妙なことに、晴政以前の人物や系図には疑問点も多く、信頼出来る一次資料が見当たらないということで、南部氏の系譜はあまりよく分かっておりません。
一説には、南部氏宗家の座を争い、奪い取ったともいわれています。
二十歳の頃から戦場に身を置き、岩手の斯波氏や謀反を起こした家臣達との戦いを繰り広げました。1541年に父の死に伴って家督を相続しました。
晴政の晴の字は、将軍足利義晴から拝領したものです。
三日月の丸くなるまで南部領
晴政は優れた戦国大名とされ、戦略戦術に優れて領土を拡大しました。今でいう青森県から岩手県一帯を掌握し、一部は秋田県にも領土を得たほどでした。
この勢力拡張に危機感を募らせたか、秋田の安東愛季が三度にわたって秋田地方の領土に侵攻してきました。南部氏の主力は遠く、防衛戦は容易ではありませんでしたが、一族衆に犠牲を出しながらも二度にわたって防衛しました。しかし三度目の攻撃で落城。晴政は奪回のために主力を動員し、南北から挟撃する形で領土を取り返しました。
こうして確立された南部領は広大で、三日月の時に南部領に入り込むと、通り過ぎる頃には満月になっているほどと言われたのです。
後継者問題
晴政の不幸は、世継ぎに恵まれないことでした。女子は多く、重臣に嫁いでいます。安東氏との戦いでも活躍した、北氏、南氏、東氏と、方角を名字とする家臣達が一族となっています。また、叔父であった石川高信の子、信直には長女を嫁がせており、後継者として養子にしています。
ところが、そうして世継ぎを定め、信直も戦功を上げた後、晴政に男子が誕生しました。歴史の常として、養子を後継者として定めた後で実子が生まれてしまうと、混乱が生じます。豊臣秀吉による秀次処分の理由には諸説ありますが、いずれにせよ実子である秀頼の誕生がなければ起きなかったことではないでしょうか。
このときの南部氏でもお家騒動が起き、晴政と信直の間で戦いが始まってしまいました。1582年に、晴政は病没しますが、信直との戦いで受けた傷が元で死んだともいわれています。南部氏の家督は実子の晴継が継ぎましたが、間をおかずに亡くなりました。病死とされておりますが、信直、あるいは九戸政実の手のものによって暗殺されたともいわれております。
結果的に、南部氏の家督を継げそうなものは信直しかおらず、信直が二十六代目の南部氏当主となりました。
晴政の人となり
晴政の実績について、詳細な資料が残されているわけではないようです。家督を相続する時期から混乱があっただろう南部氏をとりまとめる過程や、領土を拡張していく過程において、詳細を追える資料はありませんでした。
また、この時期のこの地方に関して残されている文書としては、津軽氏のものと南部氏のもので記述に食い違いなども見られるため、どれが正しいのかが判別出来ないなどの問題もあります。
そんな中で晴政という人物をイメージするための逸話として、こんなものがあります。
あるとき、晴政の刀が盗まれました。番の者が罪を謝し、処分を願い出ると、晴政は不問にするといいました。
「こんなところまで刀を盗みに来るのは、盗人の仕業ではない。どうせ若い侍あたりが魔が差したのだろう。盗んだ刀で仕事を頑張ってくれるならそれでもいい。武士たる者が金銭を盗んだとなれば処罰するが、この件は不問とする」
と、こんな具合でした。
また、遠く東北の地でありながら、中央の事情にも通じており、早くから織田信長に使者を送り、臣従の意を示していたといわれています。最北の地を治める者たちには意外とこの傾向があります。津軽為信、安東愛季なども中央へ接近を計っていました。
猛将のイメージが持たれる晴政ですが、思慮深い人物のようにも思えます。