本州最北の地で活躍した人物です。様々な逸話に欠くことがなく、暗殺を駆使したとも言われますが、義理堅い人物でもあったようです。
出自
為信の出自は定かではなく、大浦氏の生まれともいわれておりますし、南部氏に繋がる久慈氏の血筋だとも残されています。多くの部分で、津軽氏側の資料と南部氏側の資料とで食い違いがあり、はっきりとしたことが分かりません。
生年は1550年。十代の半ばを過ぎた頃、大浦為則の養子になり、大浦氏の家督を継ぎました。
南部氏との戦い
当時の東北地方では、南部晴政が台頭し、勢力を拡大していました。「三日月の丸くなるまで南部領」と言われるほどに領土を広げていたのです。しかし、その内情は決して強固ではありませんでした。
男子がなかった晴政は、従弟の石川信直を娘の婿に迎え、後継者としていました。ところが、1570年になって男子が誕生したため、信直が邪魔になりました。晴政と信直は争いを始め、そこに為信がつけ込みました。
すぐ近くにあった石川城を急襲し、城主石川高信を討ち取りました。南部氏が津軽地方を統治するには高信が必要であったといわれており、高信亡き後、南部氏は津軽地方に干渉する余力はありませんでした。それをいいことに、為信は津軽地方で大暴れして、領地を着々と広げていきました。
十年ほどして晴政が没し、南部氏の家督は信直が継ぐことになりました。依然として為信の行動は脅威でした。南部氏としてはなんとか対処したいところではありましたが、内情が安定しておらず、南部軍主力を動かすのでは背後での反乱が怖いし、津軽地方への出兵を命じられた九戸氏は動かないという有様で、さらに為信は自由に津軽を席巻出来たのです。
豊臣秀吉への臣従
何しろ津軽は日本の端っこにあります。中央政局の情報も入りづらい地勢です。どうやら為信は最上義光を通じて中央の情報を仕入れていたようで、豊臣秀吉に服するべきと判断しました。臣従の意を示すべく、自ら秀吉に目通りを願おうと、はるばる旅路に出ようと試みたのですが、四度にわたって失敗しました。
一度目は海路。暴風で流されました。
二度目は矢立峠を越えようとしましたが、浅利氏に妨害されて失敗。
三度目は南部領を強行突破しようとしましたが、出来るわけがない。
四度目は秋田氏の領内を通ろうとしましたが、秋田氏が許してくれませんでした。
ようやく五度目、秋田氏と和議を結んで使者の通行を許してもらって、ようやく秀吉の下に名馬と鷹を献上することが出来ました。
この速やかな恭順の姿勢が後に津軽氏を救うことになります。奥州惣無事令に反したとして、南部氏により糾弾されましたが、津軽氏は独立を許されたのです。
残虐な人物か、義に篤いのか
為信の逸話には、あまり美しくないものがあります。気に入った女性の夫を殺害し、あげくその女性に振られると、怒って殺してしまったとか。扇動した手勢に略奪を行わせ、金品を強奪させたりとか。毒を盛って、妻子もろとも敵を暗殺しただとか。
活躍の実績からいって優秀だったのは間違いないのですが、あまりいい話ばかりでもありません。しかし為信は三国志の豪傑、関羽を尊敬していたらしく、関羽のようにひげを伸ばしていたといいます。
関羽といえば義の人ですから、為信とは似ても似つかないように思われますが、為信にも義を立てた逸話があります。
関ヶ原の合戦で、為信は東軍につきました。戦いは東軍の勝利に終わり、西軍の石田三成は捕らえられ処刑されました。しかし、三成の子重成は津軽氏によって匿われ、藩の重臣となっています。また為信が作り始めた弘前城には稲荷神社があり、こっそりと、誰にも知られないように秀吉像が祭られていました。徳川幕府に身を置く上では、危険な所行です。
晩年
1607年。京にあった嫡男信健を見舞いに向かいましたが、信健は病死。自身も二ヶ月後に京で亡くなりました。家督は三男の信牧が相続しますが、信健の遺児を擁立する勢力との間でお家騒動が起きてしまいます。